第72話 運河沿いの倉庫
翌朝、エレノアは書状を届けるため、バルドゥールの宿泊先——王都の外れにある質素な官舎へ向かった。
普段は書状のやり取りで済ませていたが、松脂の件は直接伝えるべきだと判断した。官舎の扉を叩くと、意外にも早くバルドゥール自身が顔を出した。
「珍しいな、直接来るとは」
「急ぎでお伝えしたいことがあって」
「わかった。とりあえず中へ」
エレノアは昨日の分析結果を、簡潔に説明した。松脂の痕跡、弓や船具との関連、布地とは異なる作業場の可能性。
バルドゥールは黙って聞いていたが、話が進むにつれ、その表情がわずかに険しくなっていった。
「松脂……船具、か」
「心当たりがおありですか」
「グレゴールが賃貸契約を結んだ土地の中に、運河沿いの荷揚げ場が一つあった。単なる荷物の積み下ろし場だと思っていたが……」
バルドゥールは懐から地図を取り出し、広げた。エレノアが以前見たものよりも、さらに詳細な地図だった。
「ここだ」
指し示されたのは、南区の運河沿い、倉庫街からさらに東に外れた場所だった。
「ガスパール様が、運河沿いの荷揚げ場を当たると仰っていました」
「奇遇だな。私も今日、そこへ向かうつもりだった」
バルドゥールは地図を丁寧に折りたたみ、立ち上がった。
「一緒に来い」
「よろしいのですか」
「香りを確かめられるのは、お前しかいない。ただし——」
バルドゥールはエレノアをまっすぐに見た。
「離れて歩け。私が先に様子を見る。危険を感じたら、すぐに逃げろ」
エレノアは頷き、バルドゥールと共に官舎を出た。
運河沿いの道は、南区の中でも特に人通りが少なかった。荷揚げのための石造りの階段が水辺に続き、係留された小舟がゆっくりと波に揺れている。真昼の日差しの中でも、どこか湿った、陰鬱な空気が漂っていた。
「あの倉庫だ」
バルドゥールが指し示したのは、他の建物から少し離れた、古びた石造りの倉庫だった。扉は固く閉ざされ、窓には板が打ち付けられている。表向きは廃屋のように見えたが、扉の下の隙間から、微かに人の気配のようなものが感じられた。
エレノアは風上に回り込み、慎重に鼻を澄ませた。
(……ある)
わずかに、板の隙間から漏れてくる空気に、松脂と金属の匂いが混じっていた。以前、東方屋の灰から感じたのと同じ、あの独特の痕跡。しかしそれだけではなかった。
「叔父様……油の匂いもします。それも、ただの潤滑油ではなく」
エレノアは慎重に言葉を選んだ。
「刃物の手入れに使うような、独特の匂いです。研磨の後に残る、金属の粉のような」
バルドゥールの表情が、静かに引き締まった。
「武器庫の可能性がある、ということか」
「断定はできませんが……少なくとも、単なる香料の作業場ではないと思います」
バルドゥールはしばらく倉庫を観察していたが、やがて低く言った。
「今は踏み込まない。中に何人いるか分からない状態で強行すれば、こちらが不利になる」
「では」
「人数と出入りの時間を、じっくり見極める。ガスパールたちにも協力を頼もう」
二人は倉庫から距離を取り、運河沿いの道を戻り始めた。
「叔父様、もう一つ気になることが」
「何だ」
「もしあの倉庫が武器に関わる場所だとすれば……グレゴールの目的は、単に香を使って情報を集めることだけではないのかもしれません」
エレノアは慎重に続けた。
「香りで判断力を鈍らせ、情報を集める。それと並行して、武器を蓄えている。これは——」
「何かを、企てている……か」
バルドゥールが静かに言葉を継いだ。
「大宴の一件のような、大規模な何かをか」
「まだ分かりません。ですが、備えておくべきだと思います」
バルドゥールは頷き、しばらく黙って歩いた。運河の水面が、午後の光を反射してきらきらと揺れている。
「エレノア」
「はい」
「この件、そろそろ王宮にも正式に報告すべき段階かもしれない」
エレノアの胸が、静かに跳ねた。
「王宮に……ということは」
「ヴァルター伯爵家の残党が、武器を蓄えているとなれば、これは一介の商人の不正の域を超える。国家の安全に関わる問題だ」
バルドゥールの声は、いつになく重かった。
「私一人、あるいは若い騎士たちだけで抱え込める話ではなくなってきている」
エレノアは黙って頷いた。頭の片隅で、ラインハルトの顔がふと浮かんだ。もし正式な報告が上がれば、当然、王太子の耳にも入るだろう。
(殿下は……どう思われるだろうか)
考えかけて、エレノアはその思考を静かに打ち消した。今は、目の前の事実に集中しなければならない。
「報告の前に、もう少し確証が欲しい」
バルドゥールが言った。
「今夜、倉庫の見張りを立てる。ガスパールたちに頼めるか」
「私からも伝えます」
「頼む。……エレノア、お前はもう十分に役目を果たしている。ここから先は、私たちに任せろ」
その言葉に、エレノアは何かを言いかけたが、飲み込んだ。
バルドゥールの目には、以前よりも強い懸念の色があった。マリアを守れなかった過去が、今また、姪であるエレノアを危険から遠ざけようとする形で表れているのだろう。
「分かりました。ですが、香りに関することは、必ず私に」
「約束する」
二人は運河沿いの道を離れ、それぞれの方向へと歩き始めた。
エレノアは工房への帰り道、何度も振り返った。運河の向こうに見える、あの古びた倉庫。その中で、松脂と金属の匂いに包まれながら、何が進められているのか。
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねる。
(次に殿下にお会いする時は……もっと大きな話を、お伝えすることになるのかもしれない)
夏の午後の日差しの中、エレノアは静かに工房への道を急いだ。




