第71話 調合の癖
バルドゥールが帳簿を置いていった翌朝、エレノアはいつもより早く工房の扉を開けた。
朝の光がまだ弱い時間帯、誰も訪れない静けさの中で、エレノアは作業台に東方屋の紙包み、比較用の正規樹脂、そして三日月亭で確かめた香りの記録を並べた。
(もう一度、最初から)
母から教わった調香の基本は、香りを「層」として捉えることだった。表層、中層、そして最後に残る余韻。人が意識するのは表層だけだが、真実はいつも奥の層に隠れている。
エレノアは東方屋の樹脂をひとつまみ、小皿に乗せて炭火にかざした。白い煙が立ち上り、白檀と乳香の上品な香りが広がる。
(表層は、完璧に整えられている)
次に、香りが落ち着くのを待ってから、もう一度鼻を近づけた。中層に沈む、あの微かな苦み。神経を緩やかに鈍らせる成分。ここまでは、すでに何度も確認したことだった。
しかしエレノアは今日、さらに奥——余韻の部分に、これまで以上に集中した。
灰が冷えるまで待ち、その灰そのものの匂いを嗅ぐ。ほとんどの調香師は、燃え尽きた灰の匂いにまで注意を払わない。しかし母は違った。
『灰は、調香師の指紋のようなもの。焚き方の癖、火加減、素材の配合比——すべてが灰に残る』
母のノートに記された言葉を思い出しながら、エレノアは灰に鼻を近づけた。
(……これは)
かすかに、ごくかすかに、松脂に似た香りが灰の底に残っていた。単体では気づかないほどの量だが、乳香や白檀とは明らかに異質な成分だった。
エレノアは正規の南方産樹脂も同じように燃やし、灰の匂いを比較した。そちらには、松脂の香りはなかった。
(東方屋の香りにだけ、この松脂の痕跡がある)
エレノアは母のノートに新しいページを開き、丁寧に書き記した。「乳香・白檀を基調としながら、灰に微量の松脂系の成分が残る。これは意図的な添加ではなく、恐らく調合時に使う道具か、作業場の癖によるもの」
松脂は、ある特定の用途に使われることが多い香料だった。船の防水加工、あるいは——弓や弦の手入れ。
(弓……武器に関わる何か?)
エレノアはしばらく考え込んだ。松脂が作業場に染み付くほど使われている場所。それはただの香料商の店ではなく、何か別の用途を兼ねた場所である可能性を示唆していた。
昼過ぎ、ガスパールが工房に顔を出した。
「よう。何か進展はあったか」
エレノアは灰の分析結果を伝えた。ガスパールは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「松脂か……。騎士団でも、弓兵が弦の手入れに使う。それに、船具の防水にもよく使われるな」
「東方屋が、香料商を装いながら、実際には別の商いも行っている可能性があるということでしょうか」
「あるいは、隠れ家として使っている場所そのものに、船具や武具が保管されているのかもな」
ガスパールは低く唸った。
「南区は運河が近い。船具の扱いがあってもおかしくはないが」
エレノアは帳面にその可能性を書き加えた。倉庫、東方屋、そして運河。少しずつ、地図の上に線が引かれていく。
「これを叔父様にも伝えないと」
「ああ、伝えておいてくれ。俺はこれから、運河沿いの荷揚げ場を当たってみる」
ガスパールが工房を出た後、エレノアは再び香りの分析に戻った。
今度は、老婦人からもらった仕立て屋の布地の香りと、東方屋の焚き香を比較してみることにした。表向きは無害な布地の香りにも、同じ松脂の痕跡がないか確かめるためだった。
布地を炭火の近くに置き、香りを温めて立ち上らせる。エレノアは目を閉じ、鼻を澄ませた。
薬草を基調とした穏やかな香り。松脂の痕跡は——ない。
(この布地は、本当に無害なもの)
エレノアは静かに安堵した。しかし同時に、疑問も残った。同じ店から仕入れているはずなのに、なぜ布地の香りには松脂の痕跡がないのか。
(作業場所が違う……あるいは、扱う人間が違うのかもしれない)
もし東方屋に複数の人間が関わっているとすれば、危険な香りを扱う者と、無害な布地を扱う者は別の場所、別の手で作業している可能性がある。
エレノアはその考えを帳面に書き留めながら、ふと手を止めた。
(グレゴールが、危険な香りの調合を直接担っているとすれば……その作業場に、松脂の匂いが染み付くほどの何かがあるということ)
弓、船具、あるいは——武器の手入れ。
エレノアの脳裏に、王宮で嗅いだ、ある記憶が蘇った。ガスパールの馬具に塗られていた、金属的な刺激臭。剣の柄に塗られていた、棘草の毒。武器に関わる細工は、いつも独特の匂いを残していた。
(もしグレゴールが、香料商を隠れ蓑にして、武器か何かを扱っているのだとしたら)
それは単なる嫌がらせや情報収集の域を超えた話になる。
夕方、エレノアは帳面をまとめ、バルドゥールへの書状を書いた。
『灰の分析から、東方屋の焚き香に松脂系の成分の痕跡を発見しました。作業場に弓・弦の手入れ、あるいは船具に関わる何かがある可能性があります。布地の香りには同じ痕跡がなく、複数の作業場、あるいは複数の人間が関わっていることが考えられます』
書状を書き終えたエレノアは、ペンを置き、静かに息を吐いた。
窓の外、夏の夕暮れが南区の通りを橙色に染めている。行商人が荷をまとめ、子供たちが家路につく、いつもと変わらない光景だった。
しかしその平和な光景の裏で、松脂の匂いを纏った何かが、静かに動いているのかもしれなかった。
エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。
(母様……あなたの教えてくれた「灰の匂い」が、また一つ、真実に近づく手がかりをくれました)
蝋燭に火を灯し、エレノアは書状を丁寧に折りたたんだ。明日の朝、これをバルドゥールに届けなければならない。
夜が更けていく工房の中で、乳香と白檀、そしてかすかな松脂の香りが、いつまでも鼻の奥に残っていた。




