第70話 別邸の使用人
バルドゥールが工房を訪れなくなって、一週間が経っていた。
エレノアは毎日の仕事をこなしているが。時折窓の外に目をやっては、叔父の姿がないかと無意識に探してしまう自分に気づいていた。
その日の夕方、ようやく扉を叩く音がした。
「叔父様っ」
扉を開けると、そこにはバルドゥールが立っていた。いつもの濃紺の上着には旅塵が薄く積もっている。表情はいつもと変わらず乏しかったが、その目には隠しきれない疲労の色があった。
「遅くなった」
「どこへ行っていらしたのですか」
「南方の別邸まで、足を運んでいた」
エレノアは驚いて椅子を勧めた。バルドゥールは珍しく素直に腰を下ろし、エレノアが差し出した水を一息に飲み干した。
「グレゴールの別邸まで、直接……」
「使用人に話を聞くには、それが早い」
バルドゥールは静かに続けた。
「表向きは、王宮からの視察という名目で訪ねた。別邸の管理人は最初、口が重かったが。しかし証拠として名簿を見せ、王家の紋章入りの書状を示すと、少しずつ話し始めた」
エレノアは帳面を手に取り、静かに耳を傾けた。
「グレゴールは、この一年ほどの間に別邸を訪れたのは、わずか二度だけだったそうだ。しかも滞在は、それぞれ一晩だけ。荷物は定期的に運び込まれているが、それを開封した形跡もない」
「では、別邸はただの隠れ蓑……」
「そうだ。表向きの住所として使われているだけで、実際にグレゴールが生活している場所ではない」
バルドゥールは懐から一枚の紙を取り出した。粗末な紙に、簡単な地図が描かれている。
「管理人が、一度だけグレゴールの馬車を見送った時のことを覚えていた。馬車が向かった方角だ」
エレノアは地図を覗き込んだ。南方の別邸から、王都の方向へと戻る道筋が示されている。
「王都に、戻ってきている……」
「おそらくな。しかも、その道筋は南区へと繋がっているらしい」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
「まさか、グレゴール自身が南区に潜んでいるということですか」
「断定はできない。だが、可能性は高い。倉庫、宿屋、そして東方屋——すべてが南区に集中していることを考えれば、拠点だけでなく、本人もこの近くにいると考える方が自然だ」
エレノアは静かに息を吐いた。自分の工房から、それほど遠くない場所に、父の借金を作り出したかもしれない男が潜んでいるかもしれない。その事実が、じわじわと胸に染み込んでくる。
「叔父様、もう一つ伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「管理人の方は、グレゴールという人物について、何か……人柄のようなものを話していませんでしたか」
バルドゥールはしばらく黙っていた。
「几帳面で、感情を表に出さない男だと言っていた。使用人にも丁寧に接するが、決して深く踏み込ませない。そういう男だそうだ」
「まるで、叔父様のようですね」
エレノアが思わず口にすると、バルドゥールは片眉をわずかに上げた。
「……私を一緒にするな」
「ふふ、失礼しました」
エレノアは小さく笑った。しかしすぐに、表情を引き締めた。
「その几帳面さが、複数の拠点を分散させて、痕跡を最小限に抑えるやり方に繋がっているのかもしれませんね」
「その通りだ。だからこそ厄介てもある」
バルドゥールは地図を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。
「もう一つ、報告することがある」
「何でしょうか」
「管理人から預かった、古い帳簿の写しだ。グレゴールが伯爵家の交易事業を任されていた頃のものだ」
バルドゥールは分厚い紙束を取り出し、作業台に置いた。エレノアはそれを丁寧に開いた。
数年前の日付が並ぶ帳簿には、様々な取引の記録が細かく記されている。エレノアは指でページをたどり、ある年の記録に目を留めた。
「これは……」
三年前、母マリアが亡くなった年の記録に、ローゼンフェルト男爵家の名が記されていた。『交易ルート、確保の必要なし』という一文とともに。
「これは、何を意味しているのでしょうか」
バルドゥールはしばらく無言で、その一文を見つめていた。
「男爵家の交易ルートを、意図的に確保しなかった、ということだ。つまり——」
「父の交易ルートが断たれたのは、偶然ではなく、意図的なものだったということですか」
「そうだ。ヴォルフ公爵家が表立って動いたのは事実だろう。だが、その裏でグレゴールが交易の流れを操作し、男爵家を追い詰める片棒を担いでいた可能性がある」
エレノアの手が、帳簿の上でわずかに震えた。
母の死、父の借金、領地の接収——すべてが、一人の男の意図的な操作によって引き起こされたのかもしれない。その事実の重さに、しばらく言葉が出てこなかった。
「叔父様……」
「まだ確証はない」
バルドゥールは静かに、しかしはっきりと言った。
「帳簿の記録だけでは、証拠として弱い。だが、これが本物であれば、お前の家族に起きたことの、一つの答えになるかもしれない」
エレノアは深く息を吸い、帳簿をそっと閉じた。
「調べてくださって、ありがとうございます」
「礼はいい。私が動きたくて動いているだけだ」
バルドゥールは立ち上がりながら、ふと窓の外に目をやった。夕暮れの南区が、橙色に染まっている。
「グレゴールがこの近くにいるとすれば、迂闊には動けない。相手は用心深い男だ。こちらの動きを察知すれば、また姿を消すだろう」
「では、どうすれば」
「時間をかけて、じわじわと外堀を埋める。東方屋の仕入れ記録、倉庫の出入り、そして帳簿の裏付け。すべてが揃った時、初めて動ける」
バルドゥールはエレノアを見た。
「お前は、これまで通り香りの分析を続けてくれ。もし東方屋の香に、グレゴールの『癖』のようなものが見つかれば、それも重要な証拠になる」
「かしこまりました」
バルドゥールは扉へ向かいかけたが、途中で足を止めた。
「エレノア」
「はい」
「無茶はするな。……自分の家族のことだからといって、決して先走るな」
その言葉には、いつもの素っ気なさの奥に、静かな心配が滲んでいた。
「はい、叔父様」
エレノアが答えると、バルドゥールはわずかに頷き、夕暮れの路地へと消えていった。
一人になったエレノアは、作業台に広げられた帳簿を、もう一度丁寧に読み返した。
三年前の記録。母が亡くなった年。父の交易ルートが絶たれた年。すべてが、一本の線で繋がりつつある。
(母様、父様……あなたたちを追い詰めたものの正体に、少しずつ近づいています)
エレノアは棚から母の形見の香水瓶を取り出し、そっと手に取った。
淡い黄金色の液体が、夕暮れの光の中で静かに揺れている。
窓の外、南区の夜が静かに訪れようとしていた。どこかに潜んでいるかもしれない、グレゴールという男。その正体が、もうすぐ明らかになろうとしていた。




