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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 城下の調香師

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第70話 別邸の使用人

 バルドゥールが工房を訪れなくなって、一週間が経っていた。


 エレノアは毎日の仕事をこなしているが。時折窓の外に目をやっては、叔父の姿がないかと無意識に探してしまう自分に気づいていた。


 その日の夕方、ようやく扉を叩く音がした。


「叔父様っ」


 扉を開けると、そこにはバルドゥールが立っていた。いつもの濃紺の上着には旅塵が薄く積もっている。表情はいつもと変わらず乏しかったが、その目には隠しきれない疲労の色があった。


「遅くなった」


「どこへ行っていらしたのですか」


「南方の別邸まで、足を運んでいた」


 エレノアは驚いて椅子を勧めた。バルドゥールは珍しく素直に腰を下ろし、エレノアが差し出した水を一息に飲み干した。


「グレゴールの別邸まで、直接……」


「使用人に話を聞くには、それが早い」


 バルドゥールは静かに続けた。


「表向きは、王宮からの視察という名目で訪ねた。別邸の管理人は最初、口が重かったが。しかし証拠として名簿を見せ、王家の紋章入りの書状を示すと、少しずつ話し始めた」


 エレノアは帳面を手に取り、静かに耳を傾けた。


「グレゴールは、この一年ほどの間に別邸を訪れたのは、わずか二度だけだったそうだ。しかも滞在は、それぞれ一晩だけ。荷物は定期的に運び込まれているが、それを開封した形跡もない」


「では、別邸はただの隠れ蓑……」


「そうだ。表向きの住所として使われているだけで、実際にグレゴールが生活している場所ではない」


 バルドゥールは懐から一枚の紙を取り出した。粗末な紙に、簡単な地図が描かれている。


「管理人が、一度だけグレゴールの馬車を見送った時のことを覚えていた。馬車が向かった方角だ」


 エレノアは地図を覗き込んだ。南方の別邸から、王都の方向へと戻る道筋が示されている。


「王都に、戻ってきている……」


「おそらくな。しかも、その道筋は南区へと繋がっているらしい」


 エレノアの背筋に、冷たいものが走った。


「まさか、グレゴール自身が南区に潜んでいるということですか」


「断定はできない。だが、可能性は高い。倉庫、宿屋、そして東方屋——すべてが南区に集中していることを考えれば、拠点だけでなく、本人もこの近くにいると考える方が自然だ」


 エレノアは静かに息を吐いた。自分の工房から、それほど遠くない場所に、父の借金を作り出したかもしれない男が潜んでいるかもしれない。その事実が、じわじわと胸に染み込んでくる。


「叔父様、もう一つ伺ってもよろしいですか」


「何だ」


「管理人の方は、グレゴールという人物について、何か……人柄のようなものを話していませんでしたか」


 バルドゥールはしばらく黙っていた。


「几帳面で、感情を表に出さない男だと言っていた。使用人にも丁寧に接するが、決して深く踏み込ませない。そういう男だそうだ」


「まるで、叔父様のようですね」


 エレノアが思わず口にすると、バルドゥールは片眉をわずかに上げた。


「……私を一緒にするな」


「ふふ、失礼しました」


 エレノアは小さく笑った。しかしすぐに、表情を引き締めた。


「その几帳面さが、複数の拠点を分散させて、痕跡を最小限に抑えるやり方に繋がっているのかもしれませんね」


「その通りだ。だからこそ厄介てもある」


 バルドゥールは地図を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。


「もう一つ、報告することがある」


「何でしょうか」


「管理人から預かった、古い帳簿の写しだ。グレゴールが伯爵家の交易事業を任されていた頃のものだ」


 バルドゥールは分厚い紙束を取り出し、作業台に置いた。エレノアはそれを丁寧に開いた。


 数年前の日付が並ぶ帳簿には、様々な取引の記録が細かく記されている。エレノアは指でページをたどり、ある年の記録に目を留めた。


「これは……」


 三年前、母マリアが亡くなった年の記録に、ローゼンフェルト男爵家の名が記されていた。『交易ルート、確保の必要なし』という一文とともに。


「これは、何を意味しているのでしょうか」


 バルドゥールはしばらく無言で、その一文を見つめていた。


「男爵家の交易ルートを、意図的に確保しなかった、ということだ。つまり——」


「父の交易ルートが断たれたのは、偶然ではなく、意図的なものだったということですか」


「そうだ。ヴォルフ公爵家が表立って動いたのは事実だろう。だが、その裏でグレゴールが交易の流れを操作し、男爵家を追い詰める片棒を担いでいた可能性がある」


 エレノアの手が、帳簿の上でわずかに震えた。


 母の死、父の借金、領地の接収——すべてが、一人の男の意図的な操作によって引き起こされたのかもしれない。その事実の重さに、しばらく言葉が出てこなかった。


「叔父様……」


「まだ確証はない」


 バルドゥールは静かに、しかしはっきりと言った。


「帳簿の記録だけでは、証拠として弱い。だが、これが本物であれば、お前の家族に起きたことの、一つの答えになるかもしれない」


 エレノアは深く息を吸い、帳簿をそっと閉じた。


「調べてくださって、ありがとうございます」


「礼はいい。私が動きたくて動いているだけだ」


 バルドゥールは立ち上がりながら、ふと窓の外に目をやった。夕暮れの南区が、橙色に染まっている。


「グレゴールがこの近くにいるとすれば、迂闊には動けない。相手は用心深い男だ。こちらの動きを察知すれば、また姿を消すだろう」


「では、どうすれば」


「時間をかけて、じわじわと外堀を埋める。東方屋の仕入れ記録、倉庫の出入り、そして帳簿の裏付け。すべてが揃った時、初めて動ける」


 バルドゥールはエレノアを見た。


「お前は、これまで通り香りの分析を続けてくれ。もし東方屋の香に、グレゴールの『癖』のようなものが見つかれば、それも重要な証拠になる」


「かしこまりました」


 バルドゥールは扉へ向かいかけたが、途中で足を止めた。


「エレノア」


「はい」


「無茶はするな。……自分の家族のことだからといって、決して先走るな」


 その言葉には、いつもの素っ気なさの奥に、静かな心配が滲んでいた。


「はい、叔父様」


 エレノアが答えると、バルドゥールはわずかに頷き、夕暮れの路地へと消えていった。


 一人になったエレノアは、作業台に広げられた帳簿を、もう一度丁寧に読み返した。


 三年前の記録。母が亡くなった年。父の交易ルートが絶たれた年。すべてが、一本の線で繋がりつつある。


(母様、父様……あなたたちを追い詰めたものの正体に、少しずつ近づいています)


 エレノアは棚から母の形見の香水瓶を取り出し、そっと手に取った。


 淡い黄金色の液体が、夕暮れの光の中で静かに揺れている。


 窓の外、南区の夜が静かに訪れようとしていた。どこかに潜んでいるかもしれない、グレゴールという男。その正体が、もうすぐ明らかになろうとしていた。

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