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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 城下の調香師

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第69話 行方不明の男

 バルドゥールが去ってから三日、工房では表向き穏やかな日々が続いていた。


 朝の在庫確認、常連客への対応、新しい調合の試作——エレノアは努めていつも通りに過ごしながらも、頭の片隅では常にグレゴール・フォン・ヴァルターという名前が離れなくなっていた。


 昼過ぎ、ルーカスが工房を訪れた。手には分厚い書類の束を抱えている。


「叔父様……いや、バルドゥール卿から頼まれて、グレゴールの足取りを調べていた」


 ルーカスは言い直しながら、少し口元を緩めた。エレノアも自然と微笑んだ。この呼び方は、いつの間にか騎士たちの間でも自然に馴染みつつあった。


「何か分かりましたか」


「ああ。まず、表向きの記録では、グレゴールは大宴の一件からひと月ほど経った頃、『療養のため』と称して王都を離れ、南方の別邸に移ったことになっている」


 ルーカスは書類を作業台に広げた。


「だが、別邸を管理する使用人への聞き取りでは、実際にグレゴールがそこに到着した記録がない。荷物だけが先に運び込まれ、本人は現れなかったという証言がある」


「つまり、別邸へ向かうと見せかけて、実際には別の場所に潜伏している、ということですか」


「その可能性が高い。しかも——」


 ルーカスは書類の一枚を指した。


「グレゴールが姿を消す直前、彼の名義で、王都の外れにいくつかの土地の賃貸契約が結ばれている。倉庫、店舗、そして……小さな宿屋が一軒」


 エレノアの心臓が、静かに跳ねた。


「まさか、それは」


「三日月亭ではない。だが、似たような規模の宿だ。おそらく、グレゴールは複数の拠点を、目立たない場所に散らばらせて用意していたのだろう」


 エレノアは椅子に座り直し、静かに息を整えた。


「一つの場所に集中させず、いくつもの小さな拠点を持つ。もし一つが露見しても、他は無事に残る……そういう考え方でしょうか」


「まさにそれだ。用心深い男だという評判は、伊達じゃない」


 ルーカスは書類を丁寧にまとめながら、少し声を落とした。


「エレノア、一つ確認したいことがある」


「何ですか」


「グレゴールが過去、賃貸契約を結んだ時期だが……。お前の父君の借金が急速に膨らんだ時期と、驚くほど近い」


 エレノアは息を止めた。


「叔父様も、同じことを仰っていました。父の借金にグレゴールが関わっていたかもしれないと」


「まだ確証はない。だが、もし本当にそうなら……」


 ルーカスは言葉を濁した。エレノアの家族を追い詰めた策略と、今エレノアが追いかけている影が、同じ人物によるものかもしれない。その可能性の重さを、彼も理解しているようだった。


「大丈夫か?」


 ルーカスの静かな問いに、エレノアは小さく頷いた。


「大丈夫です。……むしろ、少しほっとしています」


「ほっとする?」


「ずっと、借金を作ったのは父の不甲斐なさのせいだと、心のどこかで思っていました。でも、もし本当に誰かの策略があったのだとしたら……父を、少しだけ許せる気がします」


 ルーカスはしばらくエレノアを見ていたが、やがて静かに言った。


「お前の父君のことは、俺はよく知らない。だが、こうして残された記録を追うだけでも……ヴァルター伯爵家とグレゴールという男が、いかに多くの人間を陰で操ってきたかが分かる。お前の家族だけが、特別に狙われたわけではないのかもしれない」


 その言葉に、エレノアは静かに息を吐いた。慰めというよりも、事実を淡々と示すルーカスらしい言い方だった。しかしそれが、今のエレノアには不思議と心強かった。


「ありがとうございます、ルーカス様」


「礼なんていい。……それより、この書類はバルドゥール卿に渡しておいてくれるか。俺はこれから訓練に戻らなければならない」


「かしこまりました」


 ルーカスが工房を出た後、エレノアは書類を丁寧に束ね、棚の引き出しにしまった。


 その日の夕方、リリアとソフィーが揃って工房を訪れた。二人とも、非番の時間を合わせてきてくれたらしい。


「エレノア、最近ずっと難しい顔してるよ」


 リリアが心配そうに言った。ソフィーも静かに頷く。


「大丈夫よ。少し、考えることが多いだけ」


「三日月亭の件、まだ続いてるの?」


 エレノアは少し迷ったが、二人には大まかな経緯を話すことにした。ソフィーが最初に噂を持ってきてくれたこともあり、隠しておく方が不自然に思えた。


「東方屋という商店が、怪しい香を扱っているらしいの。その背後に、王宮でも問題になったヴァルター伯爵家の関係者がいるかもしれないわ」


 エレノアが話し終えると、リリアは顔をこわばらせた。


「それ……大丈夫なの? エレノア一人で首を突っ込んで」


「私一人ではないわ。叔父様や、ガスパール様たちも動いてくださっているから」


「叔父様、ね」


 リリアがくすりと笑った。


「もうすっかり板についてるね、その呼び方」


「変かしら」


「ううん、いいと思う。エレノアに家族がいるって思うと、私も嬉しい」


 ソフィーも静かに微笑んだ。


「エレノアさん、無理はしないでくださいね。私にもできることがあれば、何でも言ってください」


「ありがとう、ソフィー」


 三人でしばらく他愛のない話をした後、リリアがふと思い出したように言った。


「そういえば、王宮で妙な噂を聞いたんだけど」


「妙な噂?」


「ラインハルト殿下が、最近やたらと南区の警備状況を気にかけてるって。騎士団の巡回経路を、南区の方に少し厚くしたとかなんとか」


 エレノアの手が、思わず止まった。


「殿下が……」


「エレノアのこと、心配してるんじゃない?」


 リリアがからかうように言ったが、その声には冗談だけではない響きがあった。


 エレノアは何も言わなかった。ただ、胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。


『香りをまた嗅ぎに行ってもいいか』


 あの言葉を最後に、ラインハルトはまだ一度も工房を訪れていない。しかし、もし彼が南区の情勢を気にかけているのだとしたら——エレノアたちが追っているこの一件も、すでに殿下の耳に届いているのかもしれなかった。


「殿下に、こちらから何かお伝えするべきかしら」


 エレノアが呟くと、リリアが首を傾げた。


「叔父様が動いてくれてるなら、そちらから正式に伝わるんじゃない?」


「それも、そうね」


 エレノアは静かに頷いたが、胸の奥には別の思いが残っていた。もし本当にラインハルトがこの件を知っているのだとしたら、彼はどんな思いで、遠くから南区を見守っているのだろうか。


 夕暮れが工房の窓を橙色に染め始めた頃、リリアとソフィーは帰っていった。


 一人になったエレノアは、母のノートと、ルーカスが持ってきた書類を並べて、もう一度整理し直した。


 グレゴール・フォン・ヴァルター。行方不明。複数の隠れ拠点。父の借金との時期的な一致。


 すべてがまだ点と点でしかない。しかし、その点を繋ぐ線は、確実に太くなりつつあった。


 窓の外、南区の夜がゆっくりと訪れる。遠くから、酒場の賑やかな声が聞こえてきた。何も知らない人々の、変わらぬ日常の音だった。


 エレノアは蝋燭に火を灯し、もう一度ノートを開いた。


(叔父様は、グレゴールを追っている。私は、香りの線を追い続けよう)


 自分にできることは、香りを嗅ぎ分けることだけだ。しかしその「だけ」が、これまで何度も真実への扉を開いてきた。


 エレノアは棚から、東方屋で入手した紙包みを取り出した。まだ調べきれていない工程が、いくつか残っている。


 蝋燭の炎が静かに揺れる中、エレノアは夜遅くまで、香りと向き合い続けた。

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