第69話 行方不明の男
バルドゥールが去ってから三日、工房では表向き穏やかな日々が続いていた。
朝の在庫確認、常連客への対応、新しい調合の試作——エレノアは努めていつも通りに過ごしながらも、頭の片隅では常にグレゴール・フォン・ヴァルターという名前が離れなくなっていた。
昼過ぎ、ルーカスが工房を訪れた。手には分厚い書類の束を抱えている。
「叔父様……いや、バルドゥール卿から頼まれて、グレゴールの足取りを調べていた」
ルーカスは言い直しながら、少し口元を緩めた。エレノアも自然と微笑んだ。この呼び方は、いつの間にか騎士たちの間でも自然に馴染みつつあった。
「何か分かりましたか」
「ああ。まず、表向きの記録では、グレゴールは大宴の一件からひと月ほど経った頃、『療養のため』と称して王都を離れ、南方の別邸に移ったことになっている」
ルーカスは書類を作業台に広げた。
「だが、別邸を管理する使用人への聞き取りでは、実際にグレゴールがそこに到着した記録がない。荷物だけが先に運び込まれ、本人は現れなかったという証言がある」
「つまり、別邸へ向かうと見せかけて、実際には別の場所に潜伏している、ということですか」
「その可能性が高い。しかも——」
ルーカスは書類の一枚を指した。
「グレゴールが姿を消す直前、彼の名義で、王都の外れにいくつかの土地の賃貸契約が結ばれている。倉庫、店舗、そして……小さな宿屋が一軒」
エレノアの心臓が、静かに跳ねた。
「まさか、それは」
「三日月亭ではない。だが、似たような規模の宿だ。おそらく、グレゴールは複数の拠点を、目立たない場所に散らばらせて用意していたのだろう」
エレノアは椅子に座り直し、静かに息を整えた。
「一つの場所に集中させず、いくつもの小さな拠点を持つ。もし一つが露見しても、他は無事に残る……そういう考え方でしょうか」
「まさにそれだ。用心深い男だという評判は、伊達じゃない」
ルーカスは書類を丁寧にまとめながら、少し声を落とした。
「エレノア、一つ確認したいことがある」
「何ですか」
「グレゴールが過去、賃貸契約を結んだ時期だが……。お前の父君の借金が急速に膨らんだ時期と、驚くほど近い」
エレノアは息を止めた。
「叔父様も、同じことを仰っていました。父の借金にグレゴールが関わっていたかもしれないと」
「まだ確証はない。だが、もし本当にそうなら……」
ルーカスは言葉を濁した。エレノアの家族を追い詰めた策略と、今エレノアが追いかけている影が、同じ人物によるものかもしれない。その可能性の重さを、彼も理解しているようだった。
「大丈夫か?」
ルーカスの静かな問いに、エレノアは小さく頷いた。
「大丈夫です。……むしろ、少しほっとしています」
「ほっとする?」
「ずっと、借金を作ったのは父の不甲斐なさのせいだと、心のどこかで思っていました。でも、もし本当に誰かの策略があったのだとしたら……父を、少しだけ許せる気がします」
ルーカスはしばらくエレノアを見ていたが、やがて静かに言った。
「お前の父君のことは、俺はよく知らない。だが、こうして残された記録を追うだけでも……ヴァルター伯爵家とグレゴールという男が、いかに多くの人間を陰で操ってきたかが分かる。お前の家族だけが、特別に狙われたわけではないのかもしれない」
その言葉に、エレノアは静かに息を吐いた。慰めというよりも、事実を淡々と示すルーカスらしい言い方だった。しかしそれが、今のエレノアには不思議と心強かった。
「ありがとうございます、ルーカス様」
「礼なんていい。……それより、この書類はバルドゥール卿に渡しておいてくれるか。俺はこれから訓練に戻らなければならない」
「かしこまりました」
ルーカスが工房を出た後、エレノアは書類を丁寧に束ね、棚の引き出しにしまった。
その日の夕方、リリアとソフィーが揃って工房を訪れた。二人とも、非番の時間を合わせてきてくれたらしい。
「エレノア、最近ずっと難しい顔してるよ」
リリアが心配そうに言った。ソフィーも静かに頷く。
「大丈夫よ。少し、考えることが多いだけ」
「三日月亭の件、まだ続いてるの?」
エレノアは少し迷ったが、二人には大まかな経緯を話すことにした。ソフィーが最初に噂を持ってきてくれたこともあり、隠しておく方が不自然に思えた。
「東方屋という商店が、怪しい香を扱っているらしいの。その背後に、王宮でも問題になったヴァルター伯爵家の関係者がいるかもしれないわ」
エレノアが話し終えると、リリアは顔をこわばらせた。
「それ……大丈夫なの? エレノア一人で首を突っ込んで」
「私一人ではないわ。叔父様や、ガスパール様たちも動いてくださっているから」
「叔父様、ね」
リリアがくすりと笑った。
「もうすっかり板についてるね、その呼び方」
「変かしら」
「ううん、いいと思う。エレノアに家族がいるって思うと、私も嬉しい」
ソフィーも静かに微笑んだ。
「エレノアさん、無理はしないでくださいね。私にもできることがあれば、何でも言ってください」
「ありがとう、ソフィー」
三人でしばらく他愛のない話をした後、リリアがふと思い出したように言った。
「そういえば、王宮で妙な噂を聞いたんだけど」
「妙な噂?」
「ラインハルト殿下が、最近やたらと南区の警備状況を気にかけてるって。騎士団の巡回経路を、南区の方に少し厚くしたとかなんとか」
エレノアの手が、思わず止まった。
「殿下が……」
「エレノアのこと、心配してるんじゃない?」
リリアがからかうように言ったが、その声には冗談だけではない響きがあった。
エレノアは何も言わなかった。ただ、胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。
『香りをまた嗅ぎに行ってもいいか』
あの言葉を最後に、ラインハルトはまだ一度も工房を訪れていない。しかし、もし彼が南区の情勢を気にかけているのだとしたら——エレノアたちが追っているこの一件も、すでに殿下の耳に届いているのかもしれなかった。
「殿下に、こちらから何かお伝えするべきかしら」
エレノアが呟くと、リリアが首を傾げた。
「叔父様が動いてくれてるなら、そちらから正式に伝わるんじゃない?」
「それも、そうね」
エレノアは静かに頷いたが、胸の奥には別の思いが残っていた。もし本当にラインハルトがこの件を知っているのだとしたら、彼はどんな思いで、遠くから南区を見守っているのだろうか。
夕暮れが工房の窓を橙色に染め始めた頃、リリアとソフィーは帰っていった。
一人になったエレノアは、母のノートと、ルーカスが持ってきた書類を並べて、もう一度整理し直した。
グレゴール・フォン・ヴァルター。行方不明。複数の隠れ拠点。父の借金との時期的な一致。
すべてがまだ点と点でしかない。しかし、その点を繋ぐ線は、確実に太くなりつつあった。
窓の外、南区の夜がゆっくりと訪れる。遠くから、酒場の賑やかな声が聞こえてきた。何も知らない人々の、変わらぬ日常の音だった。
エレノアは蝋燭に火を灯し、もう一度ノートを開いた。
(叔父様は、グレゴールを追っている。私は、香りの線を追い続けよう)
自分にできることは、香りを嗅ぎ分けることだけだ。しかしその「だけ」が、これまで何度も真実への扉を開いてきた。
エレノアは棚から、東方屋で入手した紙包みを取り出した。まだ調べきれていない工程が、いくつか残っている。
蝋燭の炎が静かに揺れる中、エレノアは夜遅くまで、香りと向き合い続けた。




