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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第二章 城下の調香師

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第68話 消えかけた紋章

 翌朝、エレノアはバルドゥールに宛てて急ぎの書状を送った。


『倉庫の件、鷹の紋章らしきものが見つかりました。至急ご相談したいことがあります』


 返事は昼前に届いた。いつもより字が急いた様子だった。


『すぐ行く』


 書状が届いてから半刻もしないうちに、扉を叩く音がした。


「叔父様、こんなに早く」


「悠長にしている場合ではないだろう」


 バルドゥールは珍しく、急いた足取りで工房に入ってきた。いつもの濃紺の上着は少し乱れ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。


 エレノアは椅子を勧め、すぐに昨夜の報告を始めた。倉庫の場所、夜間の荷馬車の出入り、そして倉庫の扉に刻まれていたという鳥のような紋章。


 バルドゥールは最後まで黙って聞いていたが、話が終わると眉間に深い皺を寄せた。


「鷹の紋章、か……ヴァルター伯爵家のものと断定できるか」


「ルーカス様も暗くてはっきりとは見えなかったと。ただ、鳥の形をしていたことは確かなようです」


「消しかけていた、というのが気になるな」


 バルドゥールは静かに続けた。


「もし本当にヴァルター伯爵家の紋章であり、それを消そうとした形跡があるということは、痕跡を隠そうとする意図があったということだ。単に古い倉庫を使っているだけなら、消す必要はない」


 エレノアは頷いた。


「大宴の一件で、ヴァルター伯爵家は正式な調査対象になっているはずです。もし今も伯爵家に連なる者たちが動いているなら——」


「伯爵本人の指示ではないだろう」


 バルドゥールが遮った。


「あの男は謹慎中、屋敷から一歩も出られない状態にある。だとすれば、動いているのは伯爵家の傍系か、あるいは以前からの取引相手が、伯爵家の名を借りているか、あるいは伯爵家の目を盗んで、独自に商いを続けているという線が濃い」


「後ろ盾を失っても、繋がりだけは残っている、ということでしょうか」


「おそらくな」


 バルドゥールは懐から一枚の紙を取り出した。エレノアがそれを受け取る、内容は細かい文字で書かれた人名の一覧だった。


「これは?」


「ヴァルター伯爵家に連なる傍系の者たちの名簿で、大宴の調査の際に作成したものの写しだ。この中に、東方屋の店主と繋がりのある者がいないか、調べてみたい」


 エレノアは名簿に目を通したが、見覚えのない名前ばかりだった。


「申し訳ありません。今のところめぼしい情報は無いですね」

  

「そうか、わかった。現時点では、グレゴール・フォン・ヴァルター。この者に当たりをつけている。伯爵の従弟にあたる男だな。伯爵家の交易事業を長年任されていたが、大宴の一件以降、行方が分からなくなっている」


「行方不明、ですか」


「表向きは、田舎の別邸に引っ込んだということになっている。だが、実際にそこにいるかどうかは確認が取れていない」


 エレノアの胸に、静かな緊張が走った。


「もしそのグレゴールという方が、東方屋の背後にいるとしたら……」


「まだ憶測に過ぎない。だが、調べる価値はある」


 バルドゥールは名簿を懐にしまい、静かに立ち上がった。


「私はグレゴールの足取りを追ってみる。お前は引き続き、東方屋と三日月亭の様子を注視していてくれ。ただし——」


 彼は一瞬、言葉を切った。


「いつものことだが、単独で危険な場所には近づくな。特に倉庫街には、絶対にな」


「はい」


 エレノアは素直に頷いた。しかし叔父様の表情には、いつもの無感情な様子とは違う、何か張り詰めたものがあった。


「叔父様、何か気になることが?」


 バルドゥールはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「グレゴールという男は、昔から底が知れない人間だった。ヴォルフ公爵家とローゼンフェルト家の借金の一件にも、裏で関わっていたという噂がある」


 エレノアは息を飲んだ。


「まさか……父の借金にも?」


「確証はない。だが、政敵を追い詰めるための策略に、金の流れを操る者は必ず必要になる。グレゴールはそういう仕事を、伯爵家のために長年こなしてきた可能性のある男だ」


 エレノアの中で、様々な断片が音を立てて繋がっていくような感覚があった。父の借金、母の死、ヴォルフ公爵家の策略。そして王宮でのヴァルター伯爵家との繋がり。すべてが、一本の見えない糸で結ばれているのかもしれない。


「叔父様……もしこれが、私の家族に起きたことと、繋がっているのだとしたら」


「それはまだ分からない」


 バルドゥールの声は、いつもより低く、そして静かだった。


「だが、もし繋がっているのなら、なおさらお前を危険にさらすわけにはいかない。この件は私が引き受ける」


「ですが——」


「エレノア」


 バルドゥールはエレノアをまっすぐに見た。灰色の瞳に、これまで見たことのない強さが宿っていた。


「マリアを守れなかった。その悔いは晴れたわけではない。」


 その言葉に、エレノアは何も言えなくなった。


 工房の中に、しばらく重い沈黙が落ちた。窓の外からは、南区の午後の穏やかな喧騒が変わらず聞こえてくる。その平和な音が、今はどこか遠く感じられた。


「……分かりました」


 エレノアは静かに頷いた。


「ただ、香りに関することであれば、私にしか分からないこともあるはずです。その時は、必ず頼ってください」


 バルドゥールはしばらくエレノアを見ていたが、やがて短く頷いた。


「約束しよう」


 それだけ言い残し、彼は工房を後にした。


 一人になったエレノアは、母のノートを開き、今日聞いたことを静かに書き留めた。グレゴール・フォン・ヴァルター。行方不明。ヴォルフ公爵家との繋がりの噂。


 ペンを持つ手が、わずかに震えていた。


(母様……もしかしたら、あなたを追い詰めたものと、今私が追っているものは、同じ根から生えているのかもしれない)


 窓の外、夏の午後の光が工房の中に差し込んでいる。エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。


 まだ何も終わっていない。むしろ、ようやく本当の入り口に立ったばかりなのかもしれなかった。

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