第67話 空き倉庫
翌日の朝、工房にディートリヒが顔を出した。
大柄な体を屈めて扉をくぐりながら、彼は少し照れくさそうに、しかし真剣な表情を浮かべていた。
「オスカーから話は聞いた。倉庫の件、俺も一緒に調べたい」
「ディートリヒ様まで……皆さんお忙しいでしょうに」
「エレノアが厄介事に首を突っ込んでるのに、黙って見てるわけにはいかないだろう」
ディートリヒは椅子に腰を下ろすと、懐から粗い地図を取り出した。騎士団の訓練で使うような、簡素な手描きの地図だった。
「南区の外れにある倉庫街だ。空き倉庫は五つほどあるが、オスカーが聞いてきた話だと、ここだ」
太い指が、地図の一点を差した。
「以前はヴァルター伯爵家の交易品を保管していた場所らしい。伯爵家が謹慎になってからは使われていないはずだったが……最近、夜になると人の出入りがあるという噂を、近所の荷運び人から聞いた」
エレノアは地図を覗き込んだ。倉庫街は工房から歩いて半刻ほどの距離にある、あまり人通りのない一角だった。
「夜の出入り、というのは」
「荷馬車が一台、月に数回だけ来るらしい。しかも決まって夜遅く、灯りも最小限に抑えて。真っ当な商売なら、こそこそする必要はないはずだ」
エレノアは静かに帳面を取り出し、地図を写し取った。
「叔父様にも、この話をお伝えしないと」
「……なるほどな」
ディートリヒがふと思い出したように言った。
「オスカーが妙に楽しそうに話していてな。エレノアがバルドゥール卿を『叔父様』と呼ぶようになったとか」
「……はい」
「話には聞いていたが、いざ本人の口から聞くと、なんだか妙な感じがするな」
ディートリヒは顎に手を当て、しばらく考え込むような顔をした。
「あの卿を、叔父様、か……」
「変でしょうか」
「いや」
ディートリヒは首を振り、ふっと表情を緩めた。
「良いんじゃないか。あの人、見た目は堅いが、根はちゃんとしてる。エレノアにそう呼ばれて、まんざらでもないんじゃないか」
「最初は戸惑っておられましたが……最後には『好きにしろ』と」
「確かに卿にしちゃ、随分と譲歩したな」
ディートリヒは低く笑った。
「大宴の時、自分から傷を負ってまで動いた人だ。信用できないわけがない」
エレノアは静かに頷いた。ディートリヒの実直な物言いには、いつも余計な飾りがなかった。
「それで、倉庫の件だが」
ディートリヒは地図を指で叩いた。
「今夜、様子を見に行こうと思う。ガスパールとルーカスにも声をかけた」
「私も同行させてください」
「駄目だ」
ディートリヒは即座に首を振った。
「危ない場所に、香りを嗅ぐ以外の理由でエレノアを連れて行くわけにはいかない。俺たちが見てきて、報告する。それでいいだろう」
「ですが——」
「エレノア」
ディートリヒの声が、いつになく真剣な響きを帯びた。
「大宴の夜、お前は十分に危険なことをした。俺たちはあの夜、お前が無事だったことに、心底ほっとしたんだ。今度は俺たちの番だ。頼むから、大人しくしていてくれ」
その言葉に、エレノアは何も言い返せなかった。
大柄な体に似合わず、ディートリヒの言葉にはいつも不器用な優しさが滲んでいる。エレノアは静かに頭を下げた。
「分かりました。……お気をつけて」
「任せろ」
ディートリヒは立ち上がり、扉へ向かいかけたが、途中で振り返った。
「そういえば、エレノア。前に作ってもらった薔薇の香油、まだ大事に使ってる」
「母上様の薔薇でしたね」
「ああ。あれをつけてから、母上がやたらと機嫌がいいんだ。……また今度、頼めるか」
「もちろんです。次に薔薇を持ってきていただければ」
ディートリヒは照れくさそうに頷き、工房を後にした。
その夜、エレノアは一人、工房で帳面を広げていた。
三日月亭、東方屋、そして空き倉庫。三つの点が、少しずつ線として繋がりつつある。しかしその線の先に何があるのか、まだ全体像は見えなかった。
(誰が、何のために……)
窓の外は完全に暗くなっていた。夏の夜特有の生ぬるい風が、開けた窓から流れ込んでくる。エレノアは棚の上の母の香水瓶に、ちらりと視線をやった。
母もかつて、同じように何かの真実に近づこうとして、危険な渦に巻き込まれたのだろうか。そう思うと、胸の奥が静かに締め付けられた。
深夜近く、扉を叩く音がした。
エレノアは慌てて立ち上がり、扉を開けた。ガスパール、ルーカス、ディートリヒの三人が、暗い顔で立っていた。
「どうでしたか」
エレノアが尋ねると、ガスパールが低く答えた。
「倉庫に灯りはなかった。今夜は動きがないようだ」
「ただ」
ルーカスが続けた。
「倉庫の裏手に、真新しい轍の跡があった。荷馬車が頻繁に出入りしている証拠だ。しかも——」
ルーカスは少し声を落とした。
「倉庫の扉に、小さな紋章が刻まれていた。目立たないよう、わざと消しかけたような跡だったが」
「どんな紋章でしたか」
「暗くてはっきりとは見えなかった。だが、鳥のような形をしていた」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
(鳥……まさか)
北の渡り廊下で見た、二頭の鷹が向かい合うヴァルター伯爵家の紋章。あの夜の記憶が、鮮明に蘇った。
「叔父様に、すぐにお伝えしなければ」
エレノアは静かに、しかしはっきりと言った。
三人の騎士は顔を見合わせ、それぞれに頷いた。
工房の外では、夏の夜が深く更けていく。遠くで犬の遠吠えが聞こえ、それ以外はただ静寂だけが広がっていた。しかしその静寂の奥に、何かが確かに蠢いているのを、エレノアは感じずにはいられなかった。




