第66話 客の忘れ物
比較用の樹脂を受け取ってから三日が経った。
エレノアは日々の工房の仕事をこなしながら、合間を縫って二つの香りを何度も比較していた。正規の南方産樹脂は、燃やしても穏やかな甘さが立つだけで、後味に不快なものは何一つ残らない。対して東方屋の香りは、表面こそ似ているものの、燃え尽きた後の灰にまで、あの微かな苦みが染み付いていた。
(やはり、違う)
母のノートに新たな行を書き加えながら、エレノアは静かに確信を深めていった。
その日の昼過ぎ、工房に一人の客が訪れた。
小柄な老婦人で、杖をつきながらゆっくりと店内に入ってくる。近所ではよく見かける顔だった。仕立て屋の隣に住む未亡人で、以前に「若い頃使っていた香水を思い出したい」と訪れたことがある常連客だった。
「こんにちは、いつもの香油、少し残りが減ってきてしまって」
「かしこまりました。少々お待ちください」
エレノアは棚から瓶を取り出し、丁寧に量って詰め替えた。世間話をしながら会計を済ませ、老婦人を見送る。
扉を閉めようとしたとき、床に小さな紙片が落ちているのに気づいた。老婦人が持っていた買い物籠から落ちたものらしい。
拾い上げてみると、それは荷札のようなものだった。粗末な紙に、崩れた筆跡で短く記されている。
『東方屋 納品分』
エレノアの手が止まった。
(この方が、東方屋の品を?)
慌てて外に出たが、老婦人の姿はすでに人混みに紛れて見えなくなっていた。
エレノアは荷札を手に、しばらく考え込んだ。追いかけて問い詰めるようなことはしたくない。しかし、この荷札がなぜ老婦人の籠に入っていたのか、気になって仕方がなかった。
翌日、老婦人が再び工房の前を通りかかったとき、エレノアはさりげなく声をかけた。
「先日、忘れ物をなさっていましたよ」
エレノアが荷札を差し出すと、老婦人は少し驚いた顔をした。
「あら、これ……仕立て屋さんからいただいた品に付いていたものだわ。すっかり忘れていたの」
「仕立て屋さんから?」
「ええ。最近、仕立て屋さんが新しい香油入りの布地を扱い始めてね。防虫にもなるし、良い匂いがするからって、私も一枚買わせてもらったのよ」
エレノアの胸に、静かな緊張が走った。
「その布地は、今もお持ちですか」
「もちろん。うちに大切にしまってあるわ」
「よろしければ、少し見せていただけませんか。同業のよしみで、興味がありまして」
老婦人は快く頷き、エレノアを自宅へと案内した。
小さな家の中、老婦人が丁寧に持ってきたのは、淡い緑色の美しい布地だった。エレノアが顔を近づけると、確かに香りがする。しかしそれは、これまで嗅いできたものとは少し違っていた。
(これは……別の調合ね)
香木の香りではなく、乾燥させた薬草を練り込んだような、穏やかながら爽やかな香りだった。危険な成分は感じられない。エレノアは静かに安堵した。
「素敵な香りですね」
「でしょう? 虫除けにもなって、一石二鳥だって仕立て屋さんが言っていたわ」
エレノアは布地を丁寧に確かめながら、それとなく尋ねた。
「この布地、東方屋さんから仕入れたものですか」
「さあ、詳しくは分からないけれど……荷札にそう書いてあったから、そうなんじゃないかしら」
エレノアは礼を言い、老婦人の家を後にした。
工房への帰り道、エレノアは頭の中で情報を整理した。東方屋は少なくとも二種類の品を扱っている。三日月亭に流れた、あの怪しい焚き香。そして、仕立て屋に流れた、無害と思われる香り付きの布地。
(すべてが危険なものではない……ということは)
むしろ、それが厄介だった。もし東方屋が扱う品のほとんどが無害であれば、疑いの目を向けにくくなる。ごく一部にだけ、あの成分を混ぜたものを紛れ込ませているとすれば——それは意図的な選別だ。誰かが、特定の目的のために、特定の場所へだけその香を届けているということになる。
工房に戻ると、エレノアはすぐに帳面を開き、今日分かったことを書き留めた。三日月亭、東方屋、仕立て屋。少しずつ線が繋がっていくが、その先に何があるのか、まだ全体像は見えない。
夕方、オスカーが顔を出した。
「よう、エレノア。組合筋で少し話を聞いてきたぞ」
オスカーはいつもの明るい調子で言いながら、工房の椅子に腰を下ろした。
「東方屋の店主だが、表向きは大人しい男らしい。だが最近、南区の外れにある空き倉庫を借りているという噂がある」
「空き倉庫、ですか」
「ああ。表の店だけでは手狭なんだろう、で片付けられなくもないが……その倉庫、以前ヴァルター伯爵家の交易品を保管するのに使われていた場所だそうだ」
エレノアの胸が、静かに冷たくなった。
「それは……偶然でしょうか」
「俺もそう思いたいがな」
オスカーは肩をすくめた。
「もう少し調べてみる。ただ、あまり派手に動くと相手に気取られる。ゆっくり、慎重にな」
エレノアは頷き、老婦人の件と仕立て屋の布地についても伝えた。オスカーは真剣な顔で聞いていたが、話が終わると小さく息を吐いた。
「なるほどな……無害なものと、そうでないものを使い分けている、か。だとすれば、狙いを絞って撒いているということだ」
「はい。だとすれば——三日月亭だけが、狙われた理由があるはずです」
「旅商人が多く出入りする場所、ってことか。情報を集めるにはうってつけの場所だな」
オスカーの言葉に、エレノアも同じ考えに辿り着いていた。
旅商人たちの噂話、荷の中身、行き先——三日月亭は、そうした情報が自然と集まる場所だ。もしそこに集う者たちの判断力や記憶を、ほんのわずかずつ鈍らせることができたなら。
(誰かが、情報を探っている……あるいは、何かを聞き出そうとしている)
窓の外、夕暮れの南区に灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。何も知らない人々の穏やかな夜が、静かに始まろうとしている。
エレノアは胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねた。
「叔父様にも、この話をお伝えしないと」
オスカーが目を丸くした。
「……叔父様? 誰のことだ」
「あ……バルドゥール卿のことです」
エレノアは少し気恥ずかしくなりながら答えた。
「そうお呼びすることになったんです。母がハルトマン家で、卿と姉弟のように育ったと聞いて。それに、市井では貴族の呼び方をするより、その方が自然かと思いまして」
オスカーはしばらくぽかんとした顔をしていたが、やがてにやりと笑った。
「あの、いかにも取っ付きにくそうな卿を、叔父様、ねぇ……」
「変でしょうか」
「いや、悪くない。だが想像すると笑えるな。あの無愛想な顔で『叔父様』なんて呼ばれて、どんな顔をするんだい?」
オスカーは愉快そうに笑った。
「今度会ったら、俺もからかってみようかな」
「やめてください。機嫌を損ねてしまいます」
「冗談だよ。……でも、良いと思うぞ。エレノアに家族と呼べる人がいるっていうのは」
オスカーの声から、からかいの色が消え、静かな温かさだけが残った。
「俺からも一言添えておく。……エレノア、無茶はするなよ」
オスカーの声に、いつもの軽さとは違う、静かな真剣さが混じっていた。
エレノアは小さく頷き、帳面を静かに閉じた。




