第65話 灰色の男、再び
翌朝、エレノアはバルドゥール卿に短い書状を送った。
『東方屋という商店について、ご相談したいことがあります』
返事は昼前に届いた。
『工房へ行く。午後の鐘が鳴る頃』
素っ気ない一文だったが、エレノアは少し驚いた。いつもは場所を指定して呼び出す卿が、自ら工房を訪れると言ってきたのは初めてだった。
午後、約束の時間より早く、扉を叩く音がした。
「卿、お待ちしておりました」
「早く着きすぎたか」
バルドゥール卿は珍しく、そう言い訳めいたことを口にした。いつもの濃紺の上着、感情の乏しい横顔。しかし工房の中に足を踏み入れると、その視線は棚から作業台まで、ゆっくりと室内を確かめるように動いた。
「前より、道具が増えたな」
「卿が色々と持ち込んでくださったおかげです」
「……そうか」
卿は椅子に腰を下ろし、エレノアが差し出したお茶には手をつけず、ただ静かに話を促した。
エレノアは順を追って説明した。ソフィーが聞いた宿屋の噂。三日月亭で確かめた香りのこと。ルーカスが調べた商人組合の記録。そして東方屋という、仮の許可証だけで営業している問屋の存在。
バルドゥール卿は、最後まで黙って聞いていた。
話し終えると、しばらく沈黙が続いた。窓の外から、南区の午後の喧騒が微かに聞こえてくる。
「……東方屋、か」
卿がようやく口を開いた。低く、慎重な声だった。
「その名前に、心当たりが?」
「まだ分からぬ。だが仮の許可証で営業する店は、大抵二つのうちのどちらかだ。単に手続きを怠っているだけの小商人か——あるいは、正式な登録を避けたい理由がある者か」
「香料商が、正式な登録を避ける理由というと」
「輸入元を明かせない場合だ」
バルドゥール卿はエレノアをまっすぐに見た。
「南方産の香木や樹脂は、本来なら関税を通して正式に輸入される。だが、隣国との密輸ルートを使えば、関税を逃れられる代わりに、記録を残せない。組合に登録すれば、仕入れ先を提出する義務が生じるからな」
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
「ヴァルター伯爵家が、まだそのルートを?」
「ヴァルター伯爵本人は、大宴の一件以来、屋敷での謹慎を命じられている。だが……あの家に連なる者たちすべてが、動きを止めたとは限らない」
卿は静かに続けた。
「一族の傍系、あるいは以前から取引をしていた密輸業者が、伯爵家の失脚後も独自に動いている可能性はある。むしろ後ろ盾を失った分、より慎重に、より小さく商いを続けようとするだろう」
「三日月亭のような、小さな宿を足がかりに……」
「そうだ。目立たない場所で、目立たない量を捌く。派手に儲けようとはせず、じわじわと商いを広げていく。今回のように、宿屋の女将に安く香を譲って評判を作らせるのも、その一環の可能性はある。」
エレノアは母のノートに視線を落とした。「忘却の霧」の記述。ヴァルター伯爵家との繋がり。ハインリヒの失脚後も、王宮内外に残った断片。
「卿、もし本当に東方屋がその繋がりを持っているなら……これは私一人で調べられる規模の話ではないように思います」
「その通りだ」
バルドゥール卿は静かに頷いた。
「だが、証拠がなければ動けない。今、王宮も政庁も、ヴァルター伯爵家の件で神経質になっている。憶測だけで踏み込めば、こちらが不当な言いがかりをつけたと反論される恐れがある」
「では、どうすれば」
「東方屋の仕入れ記録を、正式に押さえる必要がある。それには時間がかかる。……お前は、これ以上単独では店に近づくな」
卿の声に、いつもより強い響きがあった。
「はい。ルーカス様にも同じように言われました」
「珍しく、あの若造と意見が合うな」
バルドゥール卿はそれだけ言うと、懐から小さな瓶を取り出し、作業台に置いた。
「これは?」
「王都の外れで手に入れた、正規の南方産樹脂だ。比較のために使え。今回の香とどれほど違うか、お前の鼻で確かめておいた方がいい」
エレノアは瓶を受け取り、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
卿は立ち上がりかけたが、その動きを止めるようにエレノアが声をかけた。
「卿」
エレノアは少し迷いながら、口を開いた。
「一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「これから、卿のことを『叔父様』とお呼びしてもよろしいでしょうか」
バルドゥール卿の視線が、一瞬止まった。
「……唐突だな」
「市井では、貴族の称号でお呼びすると、かえって人目を引いてしまいます。それに——」
エレノアは静かに続けた。
「母が姉弟のように育ったのなら、私にとっても、卿は他人ではありません。そう呼ばせていただく方が、私にとっても自然な気がするのです」
バルドゥール卿はしばらく無言だった。窓の外を見たまま、何かを考えているようだったが。やがて、ひどく素っ気なく言った。
「……好きにしろ」
それだけだった。しかしその声音には、拒絶よりも、戸惑いに似た柔らかさが滲んでいた。
「では、これからはそう呼ばせていただきます。……叔父様」
エレノアが試しに口にすると、卿は軽く咳払いをした。
「くどいぞ、何度も言わなくていい」
「申し訳ありません」
エレノアは思わず微笑んだ。この不器用な男が、ほんの少し落ち着かない様子を見せるのは珍しかったからだ。
「東方屋の件、私の方で調べを進める」
卿——いや、叔父は話を戻すように言った。
「お前は工房の仕事をしていろ。無茶は、するな」
それだけ言い残し、彼は路地の奥へと消えていった。
エレノアは受け取った瓶を光にかざし、静かに息を吐いた。比較用の樹脂と、東方屋から漂っていた香り。二つの違いを確かめれば、何かがはっきりと見えてくるかもしれない。
そして「叔父様」という呼び名が、思いのほか自然に口に馴染んだことに、エレノアは静かな驚きを覚えていた。血の繋がりはなくとも、母が信頼し、慕っていた人。その人を、今は自分もまた、家族のように呼べる。
工房の窓から差し込む午後の光の中で、エレノアは棚から昨日の紙包みを取り出し、静かに作業に取りかかった。
夏の風が、開け放った窓から工房の中へと静かに流れ込んできた。




