第64話 商人組合の記録
翌日の午前、工房にルーカスが訪れた。
騎士の正装ではなく、私服姿だった。手には薄い革の帳面を携えている。
「ガスパールから話は聞いている。三日月亭の件だな」
「わざわざ来てくださったのですか」
「商人組合の記録を当たってみたんだ。そしたら少し、気になることがあった」
ルーカスは椅子に腰を下ろし、帳面を開いた。エレノアはお茶を淹れながら、彼の言葉を待った。
「三日月亭が代替わりしたのは、正確には一月と少し前だ。前の主人は本当に体を壊して引退したらしい。そこまでは自然な話だ。問題は、新しい主人——女将の夫にあたる男だが、彼が商人組合に登録した仕入れ先の記録だ」
「何か、おかしな点が?」
「ああ。香料の仕入れ先として登録されているのは、王都に店を構える正規の香料商だった。だが、実際に女将が話していた『旅の商人』という人物は、組合の記録のどこにも存在しない」
エレノアの手が止まった。
「つまり……正式な仕入れではなく、裏から流れてきたものだということですか」
「そう考えるのが自然だな。表向きの帳簿は綺麗に整えられているが、実際に焚かれている香は、その帳簿に載っていない。組合を通さない取引は珍しくはないが、わざわざ隠す理由があるとすれば……」
ルーカスは帳面のページをめくり、一枚の紙をエレノアに見せた。
「これは、三日月亭の近隣で最近開業した商店の一覧だ。この一月ほどで、南区に新しく店を構えた者たちの記録を集めてみた」
エレノアは紙に目を通した。数軒の名前が並んでいる。パン屋、仕立て屋、小さな薬種問屋——どれもありふれた商いだった。
「この中に、何か気になる名前が?」
「まだ確証はない。だが……ここだ」
ルーカスが指さしたのは、リストの最後に近い一行だった。『香油・香木問屋 東方屋』と記されている。
「東方屋。南方や東方からの輸入品を扱う問屋を名乗っているが、組合への正式な登録は済んでいない。仮の許可証だけで営業している」
「仮の許可証で……問題にはならないのですか」
「本来なら問題になる。だが、南区の管理を任されている役人に、それなりの袖の下が渡っているのだろう。これも、よくある話だ」
エレノアは静かに息を吐いた。
「その東方屋が、三日月亭に香を流している可能性がある、ということですね」
「まだ推測に過ぎないが。三日月亭からそう遠くない場所に店を構えているし、調べる価値はあると思う」
ルーカスは帳面を閉じ、エレノアをまっすぐに見た。
「エレノア、これは俺たちからのお願いだ。東方屋に直接近づくのは避けてくれ。もし本当にヴァルター伯爵家か、その関係者が絡んでいるなら、危険すぎる」
「分かっています。ただ……」
エレノアは少し言葉を選んだ。
「もし可能であれば、店の前まで、匂いだけでも確かめたいのです。それだけなら、危険は少ないと思います」
ルーカスはしばらく考えていたが、やがて小さく頷いた。
「一人では行くな。俺と一緒に行くと約束してくれ」
「約束します」
その日の午後、エレノアはルーカスと連れ立って、東方屋の前を通りかかった。
店構えは小さく、目立たない造りだった。しかし扉の隙間から漂ってくる香りに、エレノアは足を止めそうになった。
昨日、三日月亭で嗅いだのと同じ系統の、白檀と乳香を基調にした香り。そしてその奥に沈む、あの微かな苦み。
「……間違いありません。同じものです」
エレノアは小声でルーカスに告げた。
「確かか」
「はい。この香りは、忘れません」
ルーカスは店の前をさりげなく通り過ぎながら、店構えを注意深く観察した。
「店主の顔は見えなかったな」
「はい。奥に人影があるようでしたが」
二人は通りの角を曲がり、少し離れた場所で足を止めた。
「これで、三日月亭と東方屋が繋がっている可能性は高くなった」
ルーカスが低く言った。
「あとは、東方屋の背後に誰がいるかだ。ここから先は、俺たちだけでは踏み込めない」
「バルドゥール卿に、ご相談してみます」
エレノアが言うと、ルーカスは頷いた。
「そうしてくれ。あの人なら、商人組合や役人の裏事情にも通じているだろう」
工房への帰り道、エレノアは懐に忍ばせた紙包みのことを思い返していた。
(東方屋……南方からの輸入品。ヴァルター伯爵家との繋がりが、まだ完全に断たれたわけではなかったのかもしれない)
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねる。ラインハルトがいれば、この件をどう見るだろうか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
しかし今は、王宮ではない。市井の小さな工房から、自分たちの手で真実を辿っていくしかなかった。
夕暮れの南区の通りを、エレノアはルーカスと並んで歩いた。焼きたてのパンの匂いに混じって、どこかから漂ってくる夕餉の支度の香りが、いつもと変わらぬ日常を静かに伝えていた。




