第63話 紙包みの香り
工房に戻ると、エレノアはすぐに扉に鍵をかけた。
作業台の上に紙包みをそっと置き、深く息を吐く。三日月亭の香りがまだ鼻の奥に纏わりついている気がして、エレノアは一度窓を開け放ち、新鮮な風を部屋に入れた。夏の午後の風が、蒸留したばかりのラベンダーの香りと入れ替わるように吹き抜けていく。
しばらく鼻を休ませてから、エレノアは紙包みを慎重に開いた。
中には、乾いた樹脂のような小さな塊がいくつか入っていた。焦げ茶色をした、粒状の香料だ。一見すると、ただの高級な焚き香にしか見えない。指先で軽く摘み上げ、光にかざしてみる。表面には細かな艶があり、丁寧に精製された品であることが分かった。市井の宿屋が気軽に手に入れられるような、安価な代物ではない。
エレノアは小皿にひとつまみを乗せ、蒸留器の隣に置いた小さな炭火にかざした。熱が加わると、粒がゆっくりと溶け、白い煙がひと筋立ち上る。
香りが立った瞬間、エレノアは目を閉じ、鼻を澄ませた。
表層は、白檀と乳香を基調にした、確かに上品な香りだった。宿屋で嗅いだのと同じ、洗練された調合。しかしその奥に沈んでいる何かを、エレノアは慎重に追いかけた。
(……ある)
甘さの底に、微かな苦みと、ほんのわずかな刺激。以前ハインリヒの作業室で嗅いだ、神経を緩やかに侵す成分の系統に近い。ただし、あの時ほど濃くはない。まるで、長く使い続けることを前提に、極めて薄く仕込まれているような調合だった。
エレノアは煙が完全に消えるのを待ってから、もう一度、今度は冷えた灰の匂いを確かめた。燃え残った灰にも、わずかに同じ苦みが残っている。揮発しやすい成分ではなく、ゆっくりと燃焼の中で作用する種類のものだと分かった。
エレノアは棚から母のノートを取り出し、白紙のページに気づいたことを書き留めていく。
「南方産の樹脂を基調。表層は乳香と白檀。奥に神経を鈍らせる成分、微量。単回では健康被害は出にくいが、連日吸い続ければ蓄積し、頭痛・不眠を引き起こす可能性——」
書きながら、エレノアの手が止まった。
(これは、毒として使うには弱すぎる)
王宮で見てきた毒物は、どれも明確な意図を持っていた。誰かを排除するため、あるいは判断力を奪って何かを聞き出すため。しかしこの香りは、そのどれとも違う。効果は緩やかで、致命的でもない。ただ、じわじわと、長く使う者の体調を蝕んでいくだけだ。
(誰かを殺すためではない。……何のために?)
エレノアは椅子に座り直し、腕を組んで考えた。
三日月亭は代替わりしてから、この香を焚くようになった。そして客が増えた。女将は喜んでいる。しかし裏では、常連客が体調を崩し始めている。
もしこの香りに、単なる「良い匂い」以上の効果があるとしたら——たとえば、居心地の良さを錯覚させる、あるいは警戒心を緩ませるような作用があるとしたら。旅商人が多く出入りする宿だ、とソフィーは言っていた。もしそこに集まる者たちの警戒心を緩ませることが目的だとすれば、それは単なる商売の域を超えている。
(誰かがこの宿を、何かのために使おうとしている?)
考えが浮かんだ瞬間、扉を叩く音がした。
エレノアは慌てて紙包みを布で覆い、棚の奥にしまってから扉を開けた。
立っていたのはガスパールだった。非番なのか、騎士の正装ではなく、簡素な私服姿だった。
「よう。近くまで来たから寄ってみた。……何か焦げ臭いな?」
「調合の試し焚きをしていたんです。中へどうぞ」
ガスパールは工房の中に入り、物珍しそうに棚を見回した。
「随分と道具が増えたな。以前に来た時よりも」
「バルドゥール卿が色々と持ち込んでくださるので」
「相変わらずだな、あの人は」
ガスパールは笑いながら椅子に腰を下ろした。エレノアはお茶の代わりに、涼やかなミントの香りをつけた冷たい水を出した。
「実は、少し伺いたいことがあって」
エレノアは静かに切り出した。
「三日月亭という宿をご存知ですか? 最近、南方産の香を焚くようになったそうなのですが、それを譲った商人について何か情報がないかと」
ガスパールの表情が、わずかに引き締まった。
「三日月亭……ああ、旅商人がよく使う宿だな。何かあったのか」
エレノアは手短に、ソフィーから聞いた噂と、今日確かめてきたことを説明した。ガスパールは黙って聞いていたが、話が終わると腕を組んだ。
「南方産の香料で、名も知らぬ商人が安く譲った、か……。それだけ聞くと、ただの商売かもしれないが」
「私も、まだ断定はできません。ただ、気になる点がいくつか」
「言ってみてくれ」
「効果が緩やかすぎるんです。毒として使うには弱い。でも、何もしないよりは明らかに体に悪い。まるで——長く使わせることそのものが目的のような」
ガスパールはしばらく考え込んでいたが、やがて低く言った。
「少し、調べてみよう。旅商人が出入りする宿なら、俺たちの伝手で商人組合にも当たれるかもしれない」
「お願いできますか」
「任せろ。……ただ、エレノアも一人で宿に潜り込んだりはするなよ。危ないことは俺たちに任せてくれ」
エレノアは小さく苦笑した。
「もう行ってしまいましたけど」
「ははっ、確かに」
ガスパールが呆れたように言い、二人の間に軽い笑いが起きた。しかしその笑いの奥で、エレノアの中には静かな緊張が残っていた。
「他の三人には?」
「まだ話していません。今日確かめたばかりなので」
「なら俺から伝えておこう。ルーカスなら記録を洗うのが得意だし、オスカーは組合筋にも顔が利く。ディートリヒは……まあ、力仕事があれば呼んでくれ」
「ありがとうございます」
ガスパールはしばらく水を飲みながら、工房の中を眺めていた。壁際に並んだ香料瓶、乾燥した薬草の束、母の形見の香水瓶。
「なんというか……エレノアらしい場所だな。前の王宮とは全然違う」
「静かで、いい場所です」
「その静かな場所に、また厄介事が転がり込んできたわけか」
ガスパールが苦笑しながら言うと、エレノアも小さく笑った。
「困ったものですね」
「まあ、エレノアがいる限り、放っておいても厄介事の方から寄ってくるんだろうな」
その言葉に、エレノアは何も言い返せなかった。
ガスパールを見送った後、エレノアは棚の奥から紙包みを取り出し、もう一度そっと眺めた。
夏の夕暮れが工房の窓を橙色に染め始めている。
(南方産の樹脂……もしかしたらヴァルター伯爵家と、繋がりがあるのかしら)
まだ何も確証はない。しかし王宮を去ってなお、あの一年で嗅ぎ続けた「危険な香り」の記憶が、静かにエレノアの鼻を研ぎ澄ませていた。
胸元の護符に、服の上からそっと手を重ねる。
窓の外では、夕暮れの光を浴びた南区の通りが、いつもと変わらぬ穏やかさで賑わっていた。豆売りの声、酒場から漏れる笑い声、遠くで響く鐘の音。その平和な喧騒の裏に、何かが静かに忍び込んでいるのだとすれば——エレノアはそれを、見過ごすわけにはいかなかった。




