第62話 三日月亭
昼過ぎ、エレノアは工房の扉に「外出中」の札を掛け、南区の通りを歩いていた。
石畳を踏むたびに、乾いた夏の匂いが立ち上る。焼きたてのパンの香り、荷馬車の車輪が擦れる音、遠くで誰かが呼び売りをする声——王宮の静謐な廊下とはまるで違う、生きた街の喧騒だった。エレノアはその中を、努めて何気ない足取りで歩いた。
三日月亭は、噂通りの場所にあった。旅商人たちが荷馬車を停める広場に面した、二階建ての木造建築。看板には欠けた三日月の絵が描かれ、長年風雨に晒されてきたことが分かる古びた色合いをしている。しかし扉に近づくにつれ、エレノアの鼻はすぐに異変を捉えた。
(……確かに)
木と埃の匂いがしていたと聞いた宿から、思いのほか上品な香りが漂ってきている。白檀に似た深みのある香りに、微かな花の甘さが重なっていた。悪い香りではない。むしろ、宿屋には不釣り合いなほど洗練された調合だった。
エレノアは軽く息を吸い、扉を開けた。
食堂を兼ねた広間には、数人の旅商人らしき客が席についていた。天井の低い、木の匂いが染み付いた古い造りの建物。その天井近くに小さな香炉が吊るされているのが目に入った。年季の入った建物には不釣り合いなほど、新しく艶やかな作りの香炉だった。
奥の席で、白髪の商人らしき男が額を押さえ、力なくうつむいているのが見えた。傍らの女が心配そうに声をかけているが、男は「大丈夫だ、少し休めば」と力なく答えるだけだった。
(あの人もか……)
エレノアは視線をさりげなく逸らし、何も気づかなかったふりをした。
「いらっしゃい。お一人かい?」
奥から出てきたのは、恰幅の良い中年の女だった。前掛けをつけ、愛想の良い笑顔を浮かべている。噂に聞いた新しい女将だろう。
「はい。旅の途中で、少し休ませていただこうと」
「ちょうど空いた席があるよ。お茶でも淹れようか」
エレノアは勧められるまま、窓際の席に腰を下ろした。目立たない、しかし店内を広く見渡せる位置だった。
女将が奥へ下がる間、エレノアは自然な仕草で室内の空気を確かめた。天井近くの香炉から立ち上る煙は細く、決して強い香りではない。しかし——長く座っていると分かる。この香りには、鼻の奥にじわりと残る、独特の粘りがあった。呼吸を重ねるたびに、香りが皮膚の内側にゆっくりと染み込んでくるような、そんな感覚があった。
(普通の香ではないわね)
しばらくすると、女将が湯気の立つお茶を運んできた。
「ありがとうございます。……ところで、良い香りがしますね。何を焚いていらっしゃるの?」
エレノアが何気なく尋ねると、女将は嬉しそうに頬を緩めた。
「あら、気づいてくれた? 先月から始めたのよ。親戚から譲ってもらった特別な香でね。お客さんの評判も上々なんだから」
「素敵ですね。どちらで手に入れられたんですか?」
「それがねぇ、旅の商人さんが分けてくれたのよ。名前も知らない人だったけど、『これを焚けば客が増える』って、随分と安く譲ってくれてね」
女将は誇らしげに続けた。
「実際、この香を焚き始めてから、常連さんも増えたし、皆『居心地がいい』って言ってくれるのよ。前は古臭い宿だって陰口叩かれてたのに、今じゃすっかり評判が違うんだから」
エレノアは静かに相槌を打ちながら、お茶に口をつけるふりをして、もう一度香りを確かめた。
甘さの奥に、ほんのわずかな苦みが沈んでいる。強く意識しなければ気づかないほどの、微量な成分。だが——王宮で何度も嗅いだ、あの感覚に似ていた。集中力を静かに奪い、判断力を鈍らせる、あの種の調合特有の後味。
(これは……)
エレノアの背筋に、冷たいものが走った。
はっきりと断定はできない。しかし直感が告げていた。この香りは、ただ「居心地の良さ」を演出するためだけのものではない。
「なんでも体調を崩されたお客様がいるとも伺いましたが……」
エレノアが控えめに切り出すと、女将の表情がわずかに曇った。
「ああ、それね。困ったもんだよ。頭が痛いだの眠れないだの言われて。でもね、うちの香とは関係ないと思うんだけどねぇ。だって、いい匂いなんだから。悪いものなら、すぐ分かるでしょう?」
「そうですよね……こんなにいい匂いですもの」
エレノアは曖昧に微笑んだ。女将は悪意があってこの香を焚いているわけではないだろう。ただ、譲られたものが何であるかを知らないだけだ。むしろ、客が増えたことを純粋に喜んでいる様子が、かえってエレノアの胸を重くした。
(誰が、何のためにこの香を女将に渡したのか)
それが問題だった。
「あの、もしよろしければ、その香を少し分けていただくことはできますか? とても素敵な香りなので、私も試してみたくて、もちろんお代はお支払いいたします。」
エレノアが頼むと、女将は少し困った顔をした。
「うーん、実はもう残りが少なくてね。次にいつ手に入るかも分からないのよ。あの商人さん、それっきり顔を見せないし。……でも、ほんの少しなら」
女将は奥から小さな紙包みを持ってきて、エレノアに手渡した。
「これでいいかしら」
「十分です。ありがとうございます」
エレノアは礼を言い、お茶代とほんの気持ちを払って三日月亭を後にした。
通りに出ると、午後の日差しが眩しかった。振り返ると、三日月亭の看板が、何事もなかったかのように穏やかに揺れている。中では今もあの香が焚かれ、客たちが気づかぬまま、その空気を吸い続けているのだろう。
エレノアは懐にしまった紙包みにそっと手を触れながら、工房への道を急いだ。
(工房に戻ったら、すぐに分析しなければ)
胸元の護符に服の上から手を重ね、エレノアは静かに息を整えた。旅の商人が女将に「安く」譲ったという、名も知らぬ香。それが偶然なのか、それとも——
「これを焚けば客が増える」という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。まるで、そう仕向けることが最初から目的であったかのような、不自然な誘い文句だった。
エレノアの足取りが、自然と速くなった。




