第61話 宿屋の噂
ソフィーの言葉に、エレノアは椅子を引いて向かい合わせに座り直した。
「頭痛と不眠……それだけ聞くと、ただの季節の変わり目の不調にも思えるけれど」
「私も最初はそう思ったんです。でも、パン屋の女将さんが言うには、もう五人も同じような症状で寝込んでいるらしくて。しかも全員、同じ宿屋に泊まった後だって」
「同じ宿屋、というのは?」
「『三日月亭』という名前です。ここから五本ほど通りを挟んだ、旅商人がよく使う宿だと聞いています」
エレノアは棚の奥から古い帳面を取り出し、聞いた話を丁寧に書き留めた。王宮にいた頃からの癖だった。曖昧な噂話も、書き留めておけば後で線として繋がることがある。
「その方たちは、皆さん同じ部屋に泊まっていたの?」
「そこまでは……。あ、でも、ひとつだけ気になることが」
ソフィーは少し声を落とした。
「体調を崩した中の常連の方たちが、『あの宿は最近、やけに良い香りがする』って言っていたそうです。前は古びた木と埃の匂いがする宿だったのに、この一月ほどで随分と雰囲気が変わったって」
エレノアの手が、帳面の上で止まった。
「良い香り……どんなのかわかる?」
「詳しくは分かりません。ただ、女将さんが自慢げに『新しく香を焚くようになったのよ』って話していたとか」
香、という言葉に、エレノアの中で何かが静かに反応した。市井の宿屋が、わざわざ香を焚くようになった。しかもそれと時を同じくして、宿泊客に原因不明の不調が相次いでいる。
偶然かもしれない。しかし偶然にしては、出来すぎている気もした。
「リリア、あなたは何か知っている?」
作業台の隅で焼き菓子をつまんでいたリリアが、慌てて顔を上げた。
「え、私? ……そういえば、三日月亭って、最近新しい主人に代替わりしたって聞いたことあるかも。前の主人が体を壊して、遠い親戚とかいう人が継いだとかなんとか」
「代替わり……」
エレノアは帳面に「代替わり・約一月前」と書き加えた。工房を開いたのとほぼ同じ時期だ。それもまた、偶然かもしれなかったが。
「エレノアさん、これって……」
ソフィーが不安げにエレノアを見た。
「まだ何とも言えないわ。ただの噂かもしれないし、季節柄の体調不良が重なっただけかもしれない」
エレノアはそう言いながらも、内心では別のことを考えていた。王宮で嗅いだ数々の異臭。幻覚を誘う香油、神経を侵す香炉、記憶を霞ませる調合——香りは、人を癒すだけでなく、人を害する道具にもなる。それをこの一年、嫌というほど思い知らされてきた。
もし三日月亭で焚かれている「良い香り」が、ただの上等な香ではなかったら。
「一度、様子を見に行ってみましょうか」
エレノアが言うと、リリアとソフィーは顔を見合わせた。
「エレノアが直接?」
「宿の客としてなら、不自然じゃないでしょう。旅の途中で立ち寄った、ということにすれば」
「私も一緒に行く! だから休みの日に合わせて!」
リリアが勢い込んで言った。ソフィーも小さく頷く。
「私も、できる範囲でお手伝いします」
エレノアは少し迷ったが、二人の顔を見て、断らないことにした。目立たないようにと思いながらも、こうして誰かと一緒に動くことに、この一年で随分と慣れてしまった自分がいる。
「ありがとう。でも、無理はしないでね。おかしいと思ったら、すぐに離れること」
「分かってるって」
リリアが胸を張って答えた。
窓の外では、朝市の喧騒がいよいよ賑やかになっていた。エレノアは帳面を閉じ、棚の上の母の香水瓶にちらりと目をやった。
(母様なら、こういう時どうしただろう)
答えは分からない。しかし母のノートに記された言葉が、静かに頭に浮かんだ。
——香りは、真実を語る。
だとすれば、三日月亭に漂う「良い香り」もまた、何かの真実を語っているはずだった。
エレノアは静かに立ち上がり、作業着の上から薄い外套を羽織った。
「今日の午後、少しだけ様子を見てきます。」
「一人で大丈夫?」
ソフィーが心配そうに聞いた。
「大丈夫よ。ただ通りを歩いて、匂いを確かめるだけだから」
服の下、胸元の護符にそっと手を重ね、エレノアは静かに息を吸った。




