第60話 開店から一月
第二章、エレノアの市井での生活の始まりです。
朝の光が、南区の石畳を淡く染めていた。
エレノアは工房の扉を開け放ち、木製の看板を軒先に吊るした。『薔薇と霧の工房』——バルドゥール卿が持ち込んだ木材を、リリアが不器用ながら字を彫ってくれた看板だ。
開店から一月、風雨に晒された文字は少しくすんみ、馴染みの店らしい風格を漂わせ始めている。
工房の中は、蒸留したばかりのラベンダーの香りで満ちていた。棚には母マリアの形見の香水瓶が、朝日を受けて淡い琥珀色に光っている。
エレノアの首からはラインハルトから渡された銀の護符——翼を広げた鷹と細い剣の紋章——が、服の下に掛けられている。時折それを眺めては、エレノアの胸には小さな疼きが走る。「香りをまた嗅ぎに行ってもいいか」——あの言葉を最後に、彼はまだ一度もこの工房を訪れていない。忙しいのだろう、と自分に言い聞かせながらも、護符を磨く手が止まることがあった。
「今日も静かね」
エレノアは呟きながら、作業台の上に並んだ小瓶を数える。シダーウッド、ガイアックウッド、ベチバー、カシュメラン。白樹脂の代わりに使うこの組み合わせは、この一月ですっかり手に馴染んでいた。王宮にいた頃とは違い、材料の入手には苦労するが、南区の商人たちとも顔見知りになりつつある。特に香辛料商の女将は、エレノアが調合した虫除け香油をいたく気に入り、今では月に一度卸値で薬草を融通してくれるようになっていた。
開店当初は、客など誰も来ないだろうと覚悟していた。没落貴族の娘が始めた得体の知れない香房に、誰が香水を求めて来るというのか。そうも思っていたのだが——この一月で、少しずつ事情は変わりつつあった。
近所の主婦が「眠れない夜のための香油」を求めて来たり、老いた靴職人が「亡き妻の好きだった花の香りを再現してほしい」と頼みに来たりした。
エレノアの鋭敏な嗅覚と、依頼人の言葉の端々から本当の望みを汲み取る観察眼は、市井でも確かに求められ始めていた。
「エレノアー!おはようー!」
軽やかな声とともに扉が開いた。リリアだ。休みの日には必ずと言っていいほど顔を出す。今日は籠いっぱいの焼き菓子を抱えていた。
「王宮の厨房からの差し入れだよ。ソフィーも後で来るって」
「ありがとう、リリア。相変わらず気が早いのね」
「だって、エレノアの工房の匂い嗅ぐと落ち着くんだもん。それに——」
リリアは声をひそめた。
「騎士団の皆さんも、今度お休みの日にまた来たいって言ってたよ。ガスパール様なんて、『護衛としてじゃなく、普通に遊びに行きたい』なんて仰って」
「遊びに、ね」
エレノアは思わず苦笑した。正門で見送ってくれたあの四人——ガスパール、ルーカス、ディートリヒ、オスカー。彼らもまた、この一月の間に何度か工房を訪れていた。ディートリヒなど、大柄な体を小さくしながら「これ、母上が育てた薔薇なんだが」と照れながら花を持ってきたこともある。エレノアはその花から丁寧に香油を抽出し、彼に贈った。それ以来、ディートリヒは事あるごとに工房の様子を見に来てくれるようになっていた。
リリアは籠を作業台に置くと、遠慮なく工房の中を見て回った。開店直後は物珍しさで隅々まで観察していたが、今では自分の家のように寛いでいる。それがエレノアにとっては、思いのほか嬉しいことだった。
「そういえば、昨日バルドゥール卿がいらしたんだよね?」
「ええ。また新しい棚を持ってきてくれたわ。頼んでもいないのに」
エレノアは工房の奥、まだ真新しい木の棚を見やった。バルドゥール卿は無愛想な顔でやってきては、必要かどうかも聞かずに物を置いていく。先週は乾燥棚、その前は瓶を並べる木箱。今回は薬草を吊るすための梁だった。運び込む間、彼はほとんど口を利かず、額に汗を滲ませながら黙々と作業を終えると、いつものように短い一言だけを残していく。
「マリアも、こういう場所を作りたかっただろうな」
そう言い残して、彼はろくに世間話もせず帰っていった。相変わらず不器用な人だ、とエレノアは思う。だが、その不器用さの奥にある不変の優しさを、この一月で改めて実感していた。彼が持ち込むものは決して華美ではないが、どれも工房の実用に即したものばかりだ。まるで、かつて姉のように慕っていたマリアの娘を、遠くから見守り続けてくれるかのように。
「エレノアさんのお母さんって、本当にどんな方だったんですかね」
リリアの何気ない問いに、エレノアは手を止めた。棚の上の香水瓶——ダマスクローズとサンダルウッド、そして微かな苦いアーモンドの香り。母が遺した唯一の形見だ。
「今も、少しずつ改めてわかってきているところよ」
それ以上は言葉にせず、エレノアは微笑んだ。バルドゥール卿が守り続けてくれた調合記録の原本。そこに記された母の真実は、まだすべてを語り尽くしてはいない。「忘却の霧」の第二、第三の調合が今どこにあるのか——それは、この工房の静けさの中でも、時折エレノアの胸に影を落とす問いだった。ハインリヒが失脚した今も、その行方は杳として知れない。
扉の鈴が再び鳴った。今度はソフィーだ。おどおどとした足取りで入ってくるが、その目はいつも通り、工房の隅々まで鋭く観察している。手には小さな包みを持っていた。
「エレノア様、これ……厨房の余り物なんですけど」
「いつもありがとう、ソフィー。座って」
ソフィーは椅子に腰掛けると、少し落ち着かない様子で工房の中を見渡した。それから、思い切ったように口を開く。
「あの……実は近所で、少し変な噂を聞いたんです」
「変な噂?」
「隣の通りの宿屋で、最近お客さんが立て続けに体調を崩しているとか……原因がよくわからないみたいで。頭が痛いとか、眠れないとか、そういう話が続いているらしくて」
エレノアの手が、ふと止まる。ソフィーの観察眼は侍女仲間の中でも群を抜いている。彼女が「変」と言うのなら、本当に何かあるのかもしれない。
「詳しく聞かせてくれる?」
工房の中に満ちていたラベンダーの香りに、かすかな緊張が混じった気がした。開店から一月、穏やかな日々の底に、新たな謎の気配が静かに忍び寄っていた。
窓の外では、南区の朝市の喧騒が始まっている。行商人の呼び声、荷車の軋む音、子供たちの笑い声——王宮の静謐とはまるで違う、生きた街の音。エレノアはその喧騒に耳を澄ませながら、胸元の護符に手を重ね、それから小さく息を吸い込んだ。
——さて、今日はどんな香りが、何を語ってくれるだろうか。
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