第57話 言えない香り
翌朝、エレノアはいつもより早く目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗く、夜明け前の空が東の端からわずかに白み始めていた。鳥の声もまだ少ない、静かな時間だった。
エレノアは起き上がり、母の形見の香水瓶を手に取った。
淡い黄金色の液体が、薄明かりの中で静かに揺れている。
(今日で……最後だ)
明日の朝、エレノアは王宮を去る。荷物はすでにほとんどまとめていた。母のノートと香水瓶、調合の道具一式、そして一年間で書き溜めた記録の写し。それだけが、この王宮からエレノアが持ち出すものだった。
手首に形見の香りをそっと落とし、エレノアは身支度を整えた。
朝の香房の仕事を済ませ、昼前にラインハルトから呼び出しがかかった。
執務室に入ると、王太子は珍しく執務机から離れ、窓辺に立っていた。朝の光が黒髪と端正な横顔を照らしている。その横顔に、いつもの冷徹さと、それとは別の何かが混在していた。
「殿下、お呼びでしょうか」
「ああ」
ラインハルトは振り返らなかった。窓の外の景色を見たまま、静かに言った。
「今日が最後だな」
「はい」
「そうか」
沈黙が落ちた。
夏の光が執務室の石の床に白く降り注いでいる。冷たい鋼と清潔な石鹸と、森林のほのかな香りが、静かに漂っていた。
エレノアはその香りを、もう一度だけ、深く胸に吸い込んだ。
(最後だから)
ラインハルトがゆっくりと振り返った。銀灰色の瞳が、エレノアをまっすぐに捉える。
「話したいことがあると前に言ったであろう」
「はい」
王太子は一歩、エレノアに近づいた。
「お前に……渡したいものがある」
ラインハルトは執務机の引き出しから、小さなものを取り出した。
革紐に通された、小さな銀の護符だった。
楕円形の銀板に、細かな彫刻が施されている。翼を広げた一羽の鷹と、その下に走る細い剣。それはラインハルト個人の紋章だった。
エレノアは護符を受け取り、しばらく見つめた。
「これは……殿下の、紋章ですね」
「ああ」
「なぜ、私に」
ラインハルトは窓の外に視線を向けたまま、短く言った。
「市井に出れば、お前一人では身を守れない場面も出てくる。何かあった時に使え」
素っ気ない言い方だった。しかしその言葉の裏に、言えないことが積み重なっているのをエレノアは感じた。
王家の紋章ではない。騎士団の紋章でもない。ラインハルト個人の紋章を持つ護符を、エレノア一人のために渡すことの意味を、エレノアは分かっていた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
ラインハルトは静かに言い、窓の外に視線を戻した。
しばらく沈黙が続いた。
エレノアは護符を両手で包み込んだまま、ラインハルトの横顔を見ていた。
(言わなければいけないことがある)
「殿下……あの……」
「お前はなぜ、王宮を去るのだ」
エレノアが口を開くより先に、ラインハルトが静かに問いかけた。
先手を打たれた形だった。しかしその問いは、責めているのではなかった。ただ、真実を知りたいという、剥き出しの問いかけだった。
エレノアは視線を床に落とした。
(言えない)
言えば、取り返しのつかない方向へ向かってしまう。この人はそれを知っていて、それでも聞いている。
「……殿下」
エレノアはゆっくりと顔を上げ、ラインハルトをまっすぐに見た。
「私は目立たないように生きたいと思ってここに来ました。でも一年間、目立ってばかりでした」
「それはお前の鼻のせいだ」
「はい」
エレノアは静かに続けた。
「でも……それだけではありませんでした」
ラインハルトは何も言わなかった。
「この王宮で、多くのものを受け取りました。騎士たちの信頼、リリアとソフィーの友情、バルドゥール卿のこと、母のこと。そして——」
エレノアは一瞬、言葉を止めた。
「殿下のお傍にいる時間が……思っていたより、ずっと大切なものになっていました」
ラインハルトの瞳が、わずかに揺れた。
「だから……去るのか」
「はい」
エレノアははっきりと答えた。
「これ以上傍にいれば、私は……動けなくなります。殿下のことを、ただの王太子としてだけ見られなくなってから、ずっとそれが怖かった」
静寂が落ちた。
夏の風が窓を揺らし、外から蝉の声が遠く聞こえてくる。
ラインハルトはしばらく、エレノアを見ていた。
その表情に、様々なものが混在していた。何かを受け止めた重さ。そして、言いたいことを言えない男の、静かな苦しさ。
やがて王太子は、ゆっくりと口を開いた。
「お前が正しいな」
エレノアは息を飲んだ。
「私にはお前を引き止める権利はない。立場も、言葉も……持ち合わせてない」
ラインハルトは視線を窓の外に向けた。
「ただ——」
一瞬の間があった。
「お前の工房が、うまくいくことを願っている」
それだけだった。
言えることは、それだけだった。
エレノアは唇を結び、涙をこらえた。泣くつもりはなかった。しかし目の奥が熱くなるのを、止められなかった。
「はい」
エレノアは静かに答えた。
「殿下も……どうか、ご自愛ください。眠れない夜には、ラベンダーとカモミールを。眠りが浅い時はベチバーをほんの少し」
ラインハルトは窓の外を見たまま、短く言った。
「……覚えておく」
「それと」
エレノアは懐から小さな瓶を取り出した。
「これを、置いていきます。最後の調合です。ラベンダー、サンダルウッド、カモミール、そしてベチバーを少し。殿下がよく眠れるように」
ラインハルトは振り返り、瓶を受け取った。
その手が、一瞬だけ、エレノアの指先に触れた。
ほんの一瞬だった。しかしその温度が、エレノアの指先に静かに残った。
「……ありがとう」
王太子の声は、いつもより少しだけ低かった。
エレノアは深く頭を下げた。
「一年間、お世話になりました、殿下」
「ああ」
エレノアは踵を返し、扉へ向かった。
扉に手をかけた瞬間、ラインハルトが静かに言った。
「エレノア」
足が止まった。
「香りを……また、嗅ぎに行ってもいいか」
エレノアは振り返らなかった。
扉の前で、静かに息を吸い、吐いた。
「……南区の工房に、いつでも」
それだけ言い、扉を開けた。
廊下に出て、エレノアは扉を静かに閉める。
しばらく、その場に立ち尽くした。
扉の向こうから、何の音もしなかった。ラインハルトも、動いていないのだろう。
エレノアは手の中の護符を、静かに握りしめた。
小さな銀の護符。翼を広げた鷹と、細い剣。
王家の紋章でも騎士団の紋章でもない、ラインハルト個人の紋章。
(これを……持っていく)
エレノアは歩き始めた。
廊下を歩きながら、涙をこらえた。こぼれそうになるたびに、深く息を吸った。
(泣かない)
泣けば、戻りたくなる。戻れば、もう行けなくなる。
廊下の角を曲がり、薔薇園の前を通りすぎた。
夏の薔薇はまだ咲いていた。白い花びらが、風にゆっくりと揺れている。
エレノアは立ち止まらなかった。
ただ、その香りだけを、深く胸に吸い込みながら、歩き続けた。
護符を握る手が、じわりと温かくなっていた。




