第56話 逃げる香り
一月という時間は、思ったより早く過ぎた。
香房の引き継ぎは順調に進んだ。後任の首席調香師として、王都の外から経験豊富な中年の調香師が招かれることになった。エレノアはその人物への引き継ぎ文書を丁寧にまとめていた。調合の記録、香料の在庫、各貴婦人の好みの傾向、香炉と蠟燭の管理方法——ハインリヒが一人で抱えていた全ての情報を、誰が見ても分かるように整理した。
並行して騎士四人への挨拶も、少しずつ済ませていた。
ガスパールは「工房ができたら必ず行く」と笑顔で言い、ディートリヒは「寂しくなる」と照れながら言った。オスカーは「王宮がつまらなくなる」と冗談めかしながらも、その目が少し赤かった。ルーカスは静かに「達者でいてくれ」とだけ言った。
リリアとソフィーには、まだ正式に話していなかった。それが、エレノアには一番難しかった。
七月に入って最初の朝、エレノアはいつものように王太子の執務室へ向かった。
最後の一週間だった。
朝の香りを確認する。コートと手袋の香りを嗅ぐ。異常がなければ短く報告し、その日の仕事に入る。一年以上続けてきた日課が、あと数日で終わる。
執務室の扉を叩くと、「入れ」という低い声が返ってきた。
ラインハルトは窓辺に立っていた。朝の光が黒髪と端正な横顔を照らしている。
「殿下、おはようございます」
「ああ」
エレノアはいつものようにコートに近づき、香りを確認した。
冷たい鋼と清潔な石鹸、そしてほのかな森林の残り香。異常はない。しかし今日は、その香りを嗅ぐ時間が、いつもより少しだけ長くなった。
「異常はありません」
「そうか」
ラインハルトは窓の外を見たまま言った。
しばらく沈黙が続いた。いつもと同じ朝の静寂だった。しかし今日は、その静寂がどこか違って感じられた。
「エレノア」
「はい」
「今週で最後だな」
「はい、殿下。引き継ぎは全て終わっております」
「仕事の話ではない」
ラインハルトは窓から振り返り、エレノアをまっすぐに見た。
銀灰色の瞳が、静かにエレノアを捉えている。
エレノアは視線を受け止めながら、静かに頷いた。
「……はい」
「工房の場所は決まったのか」
「王都の南区に、小さな物件を見つけました。来月から使えるそうです」
「そうか」
王太子は視線を窓の外に戻した。七月の空は青く、夏の光が王宮の庭園を照らしている。
「……南区は、ここからも遠くないな」
それだけだった。
エレノアは胸の奥で何かが締め付けられる感覚を覚えながら、静かに答えた。
「はい。王都の中ですので」
「そうか」
ラインハルトはそれ以上、何も言わなかった。
エレノアは香油の調整を始めた。最後の一週間、毎日同じ時間に同じ場所で同じ仕事をする。それがこんなにも重く感じられるとは、思ってもみなかった。
その日の夕方、エレノアはようやくリリアとソフィーに話した。
香房の裏の小さな休憩スペースで、三人でハーブティーを飲みながら。
「……来週で、王宮を去ります」
リリアは手の中の茶杯を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
ソフィーが小さな声で言った。
「工房を開くんですよね」
「はい。王都の南区に良い場所を見つけました」
「そう……」
リリアがゆっくりと顔を上げた。その目が、うっすらと赤くなっていた。
「寂しいな……」
たった一言だった。しかしその言葉が、エレノアの胸に深く刺さった。
「私も……寂しいです」
「嘘つかないでよ」
リリアが苦笑した。
「エレノアは絶対、王宮から出たかったじゃない。目立たないようにしたかったんでしょ」
「それは……そうですけど」
「でも最近は、目立ちまくってたけどね」
リリアは笑いながら、目元を拭った。ソフィーが静かに笑い、エレノアもつられて笑った。
三人で笑いながら、誰も何も言わなかった。
それで十分だった。
翌日の昼、バルドゥール卿に呼び出された。
いつもの薬草庭園ではなく、書庫の近くの小さな中庭だった。夏の草花が咲き、蜂の羽音が聞こえる、静かな場所だった。
卿はベンチに座り、一枚の書状を持っていた。
「南区の物件の件だ」
エレノアが近づくと、卿は書状をエレノアの前に置いた。
「建物の状態を確認させた。問題はないが、香料の保管庫として使うなら壁の補強が必要だ。業者には話をつけてある」
エレノアは書状を受け取り、内容を確認した。詳細な建物の調査報告と、補強工事の見積もりが丁寧に記されていた。
「卿……これは」
「余計なことだったか」
「いいえ」
エレノアは静かに首を振った。
「ありがとうございます。でも……こんなにしていただいては」
「マリアの娘が工房を開くなら、まともな建物で開いてほしい。それだけだ」
素っ気ない言い方だった。しかしその言葉の奥に、母への想いが静かに滲んでいた。
エレノアは書状を胸に抱き、深く頭を下げた。
「卿は……本当に、不器用ですが、優しさを持った方ですね」
「余計なことを言うな」
「母の言った通りでした」
バルドゥール卿は無言だった。
視線を草花に向け、しばらくそのままでいた。やがて短く言った。
「工房が軌道に乗ったら……一度、見に行く」
「ぜひ」
エレノアは静かに微笑んだ。
「その時は、母の香りに近いものを作ってお待ちしています」
バルドゥール卿は何も言わなかった。
しかし立ち上がり際に、ひどく小さな声で言った。
「……楽しみにしている」
その言葉が、エレノアには意外なほど嬉しかった。
中庭を後にして、エレノアは廊下を歩いた。
頭の中では、ずっと避けてきた問いが静かに広がっていた。
(私はなぜ、王宮を去ろうとしているのか)
借金が終わったから。工房を開きたいから。目立たない場所で生きたいから。
全て本当のことだった。
しかし、それだけではないことも、エレノアには分かっていた。
ラインハルトへの感情。それが何なのか、とっくに分かっていた。しかし言葉にすれば、取り返しのつかない方向へ向かってしまう。だから言わなかった。
王太子と没落した男爵家の娘。その間にある距離は、どんな感情でも埋められない。それは最初から分かっていた。
(だから逃げるのか)
その問いが、胸の奥で静かに響いた。
逃げる。
そうかもしれなかった。借金が終わった今、王宮に残る理由は仕事だけだった。しかし本当のことを言えば——残ろうと思えば、理由は作れた。後任の補佐として、あるいは王宮専属の独立した調香師として。ラインハルトが望めば、その形は作れたはずだった。
しかしエレノアは、それを望まなかった。
(これ以上、傍にいれば)
王太子の冷たい鋼と石鹸と森林の香りが、頭から離れなくなる。その香りが漂う場所が、自分の居場所になってしまう。
そうなってしまう前に、行かなければならなかった。
夜、王太子の執務室で最後から二番目の夜の香油を調整していると、ラインハルトが静かに言った。
「お前が去った後、香房はどうなると思う」
「後任の方はしっかりした方です。私より経験もあります。問題はないかと」
「そういう意味ではない」
エレノアは手を止めた。
「……どういう意味ですか」
ラインハルトは書類から目を上げず、低い声で言った。
「この執務室の香りが、変わるだろうということだ」
エレノアは胸が痛くなるのを感じた。
「……後任の方に、殿下のお好みをお伝えしておきます。ラベンダーとサンダルウッドを基調に、疲れている時はカモミールを加えること。眠りが浅い時はベチバーをほんの少し」
「覚えたのか、そこまで」
「一年間、毎日調整しておりましたので」
ラインハルトはしばらく無言だった。
やがて静かに言った。
「……丁寧に教えてやってくれ」
「はい、殿下」
部屋を辞す際、ラインハルトが静かに言った。
「明日、少し時間を取れるか。最後に話したいことがある」
エレノアは足を止めた。
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
「はい」
それだけ答えて、扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、エレノアは石壁に手をついた。
冷たい石の感触が、掌から伝わってくる。
(明日、話したいこと)
それが何なのか、分かってしまうのが怖かった。
分かってしまったら——逃げられなくなる気がした。
母の形見の香りを手首に落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
夜の廊下に、夏の生ぬるい風が静かに吹き抜けていった。




