第55話 裁定の朝
時は過ぎ、六月に入って最初の週。正式な裁定が下りた。
ヴォルフ公爵家による不正取引の証拠が揃い、ローゼンフェルト男爵家に対する借金の大部分が不当なものとして無効とされた。残額についても、王宮での一年間の働きに対する報酬で十分に賄える金額だった。
裁定の書状が届いたのは、朝の香房での仕事中だった。
使いの者から書状を受け取り、エレノアは作業台の前に立ったまま、その内容をゆっくりと読んだ。
羊皮紙に記された文字が、朝の光の中ではっきりと見える。
『ローゼンフェルト男爵家に対する全ての債務は、本日付けをもって完済とみなす』
エレノアはしばらく、その一行を見つめていた。
(終わった)
三年間。父の失敗から始まり、家が傾き、母の工房だけが残り、そしてこの王宮に来た。全てはこの一行のためだった。
しかし胸に広がったのは、喜びよりも先に、静かな虚脱感だった。
「エレノア? どうしたの、顔色が」
リリアが覗き込んできた。
エレノアは書状をそっと折りたたみ、静かに答えた。
「……借金が、終わりました」
リリアは一瞬、目を丸くした。それからゆっくりと、その意味を理解したように表情が変わった。
「そっ……か。よかった、ね」
「ええ」
「……エレノアは、これからどうするの」
リリアの声は、いつもより少し低かった。
エレノアは答えなかった。答えられなかった。
その日の午後、エレノアはラインハルトに報告に向かった。執務室に入ると、王太子はすでに裁定の内容を知っているようだった。エレノアが書状を取り出す前に、静かに言った。
「届いたか」
「はい」
「そうか」
短い沈黙が落ちた。
ラインハルトは執務机に座ったまま、エレノアを見ている。銀灰色の瞳が、静かにエレノアを捉えていた。
「……お前はこれから、どうするつもりだ」
「殿下」
エレノアは深く頭を下げた。
「一つ、お願いがあります。正式な退職の申し出まで、もう少しだけ時間をいただけますか。香房の後任が決まるまで、仕事に支障が出ないよう引き継ぎをしてから」
ラインハルトはしばらく無言だった。
「……いつまで」
「一月ほどいただければ、十分です」
王太子は窓の外に視線を向けた。六月の空は青く、夏の光が王宮の石壁を白く照らしている。
「わかった」
それだけだった。
エレノアは頭を下げ、退出しようとした。
「エレノア」
ラインハルトの声に、足が止まった。
「はい」
「……その一月、無駄にするなよ」
何を指しているのか、エレノアには分からなかった。仕事のことを言っているのか。それとも別の何かを。
「はい、殿下」
エレノアは静かに答え、執務室を辞した。
廊下に出た瞬間、胸の奥で何かが大きく揺れた。
(無駄にするな)
その言葉が、頭から離れなかった。
夕方、エレノアはバルドゥール卿に書状を送った。話があると、一行だけ記した。
翌朝、卿から返事が届く。
『薬草庭園、昼前』
指定の場所に行くと、バルドゥール卿はすでにそこにいた。いつもの濃紺の上着、感情のない横顔。左腕の包帯はもう外れていた。
「裁定の件は聞いた」
エレノアが近づくと、卿は前置きなく言った。
「はい。それで……卿にご報告したくて」
「王宮を去るつもりか」
「一月後に」
バルドゥール卿は無言だった。薬草庭園に夏の風が吹き、ラベンダーとローズマリーが揺れる。
「工房の件は、決まっているのか」
「まだです。王都の市井に場所を探しています。小さな場所で構わないので」
「資金は」
「報酬の蓄えと、家の残った資産で何とかなるかと」
卿はしばらく無言だった。何かを考えているようだったが、表情は変わらない。
「場所を探すなら……王都の南区がいい」
「南区、ですか」
「職人と商人が多い地区だ。派手ではないが、生活に根ざした需要がある。香料を求める者も多い」
エレノアは少し驚いた。バルドゥール卿が、こういった具体的な助言をするとは思っていなかった。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
卿は素っ気なく言い、視線を薬草の茂みに向けた。しばらく沈黙した後、ひどく短く言った。
「……手伝えることがあれば、言え」
エレノアは静かに卿を見た。
感情のない横顔。しかしその言葉の奥に、母を守れなかった八年分の何かが滲んでいた。
「卿」
「何だ」
「母が卿を信頼したのは……正しかったと思います」
バルドゥール卿は答えなかった。
ただ、視線を薬草の茂みに向けたまま、微かに、ほんの微かに、肩の力が抜けたように見えた。
その夜、エレノアは自分の部屋で母のノートを開いた。
最後のページ、走り書きの一文を読み返した。
『香りは、真実を語る。でも香りより大切なのは、それを嗅ぐ人の心だ』
エレノアはしばらく、その言葉を見つめていた。
(私の心は……今、何を嗅いでいるのだろう)
借金が終わった。王宮を去る理由ができた。工房を開く夢が、現実に近づいた。
全て、望んでいたことだった。
しかしどうしても、胸の奥の冷たさが消えなかった。
それが何なのか、エレノアは分かっていた。分かっていたから、考えないようにしていた。
窓の外に目を向けると、夜の王宮に月の光が降り注いでいた。
遠くに見える王太子の執務室の窓に、まだ灯りがついていた。
(殿下は……今夜も、眠れていないのだろうか)
エレノアは母の形見の香りを手首に落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
(この香りを……あと何度、ここで嗅ぐのだろう)
その問いに、答えを出す勇気が、まだなかった。
夜の静寂の中で、月の光だけが王宮の石畳を冷たく照らしていた。




