第54話 春の終わりに
五月の終わりが近づいていた。
王宮の庭園では薔薇が盛りを過ぎ、花びらが風に舞って石畳に落ちている。春から夏へと移り変わる、柔らかな季節の境目だった。
香房はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
ハインリヒ不在の混乱も一週間を過ぎた頃から収まり始め、エレノアの取りまとめのもとで仕事は滞りなく回るようになっていた。下級の調香師たちも少しずつエレノアの指示に慣れ、朝の在庫確認から貴婦人たちへの調合の手配まで、香房の日常が穏やかに動いていた。
その朝、エレノアは香房の作業台で新しい調合に取り組んでいた。
夏に向けて、涼しげで清々しい香りを作る季節だ。シダーウッドの乾いた清涼感を基調に、ベルガモットの爽やかな柑橘を重ね、最後にダマスクローズをひと滴——母から受け継いだ癖だった。
どんな香りを作っても、最後は必ず薔薇で締める。
完成した香りを手首にそっとつけ、エレノアは目を閉じた。
夏の朝のような、清々しい香りだった。
「いい匂い」
リリアが顔を覗き込んできた。
「新しい調合?」
「夏向けに試作してみました」
「素敵ね。ねえ、これ私にも少し分けてもらえない?」
「後で調整したら」
リリアは嬉しそうに笑い、作業台の端に腰をかけた。
「ねえ、エレノア。最近すごく忙しそうだけど、大丈夫?」
「大丈夫よ。慣れてきたから」
「でもさ……ハインリヒの仕事、全部一人で抱えてるじゃない。後任が来るまでとはいえ」
「皆が手伝ってくれているわ」
エレノアは静かに答えた。実際、香房の下級調香師たちはよく動いてくれていた。エレノアが指示を出せば、文句一つ言わずに動く。ハインリヒの圧力がなくなったことで、むしろ香房全体の空気が軽くなっていた。
「エレノアが首席になればいいのに」
リリアがさらりと言った。
エレノアは苦笑した。
「それは困るわ。目立ちすぎるし」
「もう十分目立ってると思うけどなあ」
リリアはくすくすと笑った。エレノアも、つられて小さく笑った。
その時、ソフィーが香房に駆け込んできた。
「エレノアさん、大変です! イザベラ公妃殿下から急ぎの呼び出しが」
エレノアはすぐに立ち上がり、手を拭いた。
「何かあったの?」
「明日の会合で使う香水が、急に気に入らなくなったと……」
「わかりました。すぐ伺います」
エレノアはリリアに「後でね」と伝えて香房を出た。
イザベラ公妃の私室に向かいながら、エレノアは頭の中で公妃の好む香りを整理した。濃厚なローズとムスクを基調に、華やかさの中に威厳を持たせた調合。公妃の香りは彼女の政治的な立場と密接に結びついている。
公妃の私室は相変わらず豪奢だった。黄金の装飾、天蓋付きのベッド、壁を覆う高価なタペストリー。
イザベラ公妃は絹のドレスをまとい、鏡の前に座っていた。
「来たわね、エレノア」
「お呼びとのことで参りました、公妃殿下」
「明日の会合、南方の問題が片付いた後の初めての集まりなの。いつもの香りでは少し……足りない気がして」
公妃はエレノアをじっと見た。その瞳には、相変わらず野心の光が宿っている。しかし以前とは少し違う。大宴の一件を経て、エレノアをただの道具とは見ていない何かが、その瞳の奥にあった。
「どのような印象にされたいですか」
「強さ。そして……余裕。ハインリヒが失脚した後、私の立場をはっきりさせたいの」
エレノアは少し考えてから答えた。
「畏まりました。今の調合にサンダルウッドの深みを加え、アイリスをほんのわずか——権威と格調を香りに持たせましょう。ローズの華やかさはそのままに、奥行きを増す形で」
公妃の唇が満足そうに動いた。
「あなたは相変わらず、よく分かっているわ」
エレノアは深く頭を下げた。
「明朝までにお届けします」
公妃の私室を辞して廊下に出ると、エレノアはふと立ち止まった。
王宮に来た当初、この公妃から最初の依頼を受けた時のことを思い出した。ソフィア妃の香りを調べてほしいという、明らかな政治的意図を持った依頼。あの時エレノアは警戒しながら、できるだけ距離を置こうとしていた。
今は違う。距離を置きながらも、公妃の求めるものを正確に汲み取れるようになっていた。
それが成長なのか、それとも王宮に染まってしまったのか、エレノアには判断がつかなかった。
夕方、作業を終えたエレノアは薬草庭園に出た。
一人で風に当たりたかった。
ラベンダーとローズマリーが夕暮れの光に揺れている。甘く清潔な香りが、一日中香料に囲まれていた鼻を静かに休ませてくれた。
「珍しいな、こんな時間に一人でいるのか」
聞き慣れた声に振り返ると、ガスパールが騎士団の訓練から戻る途中らしく、汗を拭きながら歩いてきた。
「少し休みたくて」
「俺も同じだ。隣、いいか」
「どうぞ」
二人は薬草庭園のベンチに並んで座った。
しばらく無言だった。夕暮れの風がラベンダーの香りを運んでくる。
「エレノア」
「はい」
「お前が王宮を去った後のことを、最近よく考えてしまうんだ」
ガスパールは少し照れくさそうに言った。
「変な話だろ。まだ当分先のことなのに」
「そんなことはありません」
エレノアは静かに答えた。
「私も……最近、考えることがあります」
「工房のこと、本気で考えているんだな」
「はい」
「どんな工房にしたいんだ?」
エレノアはしばらく考えてから、静かに言葉を選んだ。
「小さくていいんです。派手な看板も、大きな客もいらない。ただ……香りに困っている人が来た時に、その人に合った香りを作れる場所。王宮のような政治的な意味は持たせずに、ただ純粋に香りだけを作れる場所を」
ガスパールは静かに聞いていた。
「母がそういう場所を作りたかったのかもしれないと、最近思うんです。王宮で色々なことに巻き込まれながら、本当はただ、誰かのために香りを作りたかっただけだったんじゃないかと」
「……そうか」
ガスパールは少し間を置いて言った。
「俺は騎士だから、工房のことはよく分からない。でも……エレノアが作る場所なら、きっとその人に合った香りが見つかる場所になると思う」
エレノアは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「俺も行くからな。また手入れ用の香油を作ってもらえるか?」
「ガスパール様の調合も、考えてみます」
ガスパールは笑った。その笑顔が、夕暮れの光に温かく照らされていた。
薬草庭園を後にして、エレノアは王太子の執務室へ向かった。
今日の最後の仕事、夜の香油の調整だった。
執務室に入ると、ラインハルトは珍しく書類から顔を上げて待っていた。
「少し、話がある」
「はい」
エレノアは立ったまま、静かに耳を傾けた。
「ヴォルフ公爵家の不正についての調査が、予想より早く進んでいる」
エレノアの心臓が、静かに跳ねた。
「ローゼンフェルト家の借金の大部分は、ヴォルフ公爵家が意図的に作り出したものだという証拠が揃いつつある。正式な裁定が下りれば……借金の大半が、不当なものとして無効になる可能性がある」
「それは……」
「早ければ、一月以内に結論が出る」
エレノアはしばらく、何も言えなかった。
一月以内。借金が無効になれば、王宮を去る理由が生まれる。
それは望んでいたことだった。ずっと、それだけを目指して来た。
しかし今、その言葉を聞いた瞬間、胸の中に温かさではなく、静かな冷たさが広がった。
「……ありがとうございます、殿下」
エレノアはゆっくりと頭を下げた。
ラインハルトはエレノアを見ていた。
「どうした」
「いいえ、何でもありません」
「顔色が変わったぞ」
「……少し、驚いただけです」
王太子はしばらくエレノアを見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「急かすつもりはない。ただ、知っておくべきだと思って伝えた」
「はい」
エレノアは香油の調整を始めた。手は動いていたが、頭の中では別のことを考えていた。
一月以内。
その言葉が、春の終わりの空気の中で、静かに響き続けていた。
部屋を辞す際、ラインハルトが窓の外を見ながら静かに言った。
「庭の薔薇が、散り始めている」
「はい……春も終わりですね」
「そうだな」
それだけだった。
しかしその言葉に込められた何かが、エレノアの胸の奥に静かに刺さった。
廊下に出て、エレノアは立ち止まった。
窓の外では、夜の風に乗って薔薇の花びらが一枚、暗い石畳に舞い落ちていった。
母の形見の香りを手首に落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
(春が終わる。そして……私の王宮での時間も、終わりに近づいている)
それは分かっていたことだった。最初から、分かっていたことだった。
しかしどうしても、胸の奥の冷たさが消えなかった。
夜の廊下に、散りかけた薔薇の残り香が静かに漂っていた。




