第53話 嵐の後の香房
大宴から一週間が経った。
王宮はゆっくりと、しかし確実に日常を取り戻しつつあった。
ハインリヒの身柄は騎士団の管理下に置かれたまままだ尋問が続いており、ヴァルター伯爵家への正式な調査も実際に開始された。南方の使者たちの背後にある隣国との関係についても、外交を通じた調査が始まったという報告が入っていた。
香房では、エレノアが実質的な取りまとめ役として仕事を続けていた。
朝の在庫確認、各貴婦人への調合の手配、香炉と蠟燭の管理——ハインリヒが一人で握っていた仕事は思った以上に多く、エレノアは毎日目が回るほど忙しかった。
「エレノア、これどうすればいい? ソフィア妃殿下から新しい香水の注文が来てるんだけど」
リリアが書状を持って駆け込んできた。
「見せて」
エレノアは書状を受け取り、内容を確認した。ソフィア妃の好む香りの傾向と、季節に合わせた新しい調合の希望が丁寧に記されていた。
「これは私が対応します。リリア、午後に素材の在庫を確認しておいてくれる?」
「了解!」
リリアが元気よく返事をして走っていく。その背中を見ながら、ソフィーが静かに近づいてきた。
「エレノアさん、少し顔色が悪いですよ。ちゃんと眠れていますか?」
「ありがとう、大丈夫よ」
「大丈夫じゃない顔をしています」
ソフィーは心配そうに眉を寄せた。エレノアは苦笑した。
「……少し、考えることが多くて」
「お母様のこと、ですか」
エレノアは少し驚いてソフィーを見た。ソフィーは静かに続けた。
「大宴の後から、エレノアさんの目が少し遠くなった気がして。余計なことを言ってしまいましたか」
「いいえ」
エレノアは首を振り、静かに答えた。
「ソフィーは鋭いわね。……そう、少し母のことを考えていました。でも、悪い意味ではないの」
ソフィーは優しく微笑み、それ以上は何も聞かなかった。その気遣いが、エレノアには静かにありがたかった。
昼過ぎ、ガスパールが香房の近くを通りかかった。
「よう。最近、顔を合わせる機会がなかったな」
「大宴の後片付けで、こちらも忙しくて。ガスパール様こそ、お怪我はありませんでしたか」
「俺は平気だ。……エレノア、少しでいい時間はあるか」
ガスパールは周囲を確認してから、小声で続けた。
「ルーカス、ディートリヒ、オスカーも含めて、皆で一度集まりたいんだ。大宴の後、ちゃんと話せていなかったから」
「はい、もちろんです」
夕方、厩舎の奥の談話室に五人が集まった。
大宴の夜以来、こうして全員が顔を揃えるのは初めてだった。
「まずは……お疲れ様と言いたい」
ガスパールが口を開いた。
「あの夜、エレノアが小型香炉の異常に気づかなければ、国王陛下も王太子殿下も危なかった。皆、本当によくやった」
ルーカスが静かに頷いた。
「エレノア殿のおかげで、俺たちも動けた。感謝している」
ディートリヒが腕を組んで言った。
「それにしても、ハインリヒのやつ……よくもまあ、あれだけのことを」
「権力と金があれば、人は変わるものだ」
ルーカスが静かに分析した。
「それより」
オスカーがエレノアを見た。いつもの明るい調子ではなく、少し真剣な顔だった。
「エレノア、お前さ……これからどうするつもりなんだ? 王太子殿下の専属調香師として、このまま王宮に残るのか?」
場の空気が少し変わった。
エレノアは静かに四人を見回してから、正直に答えた。
「まだ、借金が残っています。だからもうしばらくは王宮で働きます。でも……」
「でも?」
「いつか、市井に工房を開きたいと思っています」
四人は顔を見合わせた。それから、最初に口を開いたのはガスパールだった。
「そうか……。お前らしいな」
「らしい、ですか?」
「ああ。エレノアはずっと、目立たないところで働きたいと言っていたからな。王宮よりも、そっちの方が似合う気がする」
ディートリヒが苦笑した。
「でも、寂しくなるな」
「俺たちに何かあった時、誰に頼めばいいんだ」
オスカーが冗談めかして言ったが、その声音には本当の寂しさが滲んでいた。
「まだ、すぐの話ではありませんよ」
エレノアは静かに微笑んだ。
「でも……皆さんには、きちんとご挨拶してから行きます」
「当たり前だ」
ガスパールが笑顔で言い、他の三人も頷いた。
ルーカスが静かに付け加えた。
「工房を開いたら、教えてくれ。俺たちが最初の客になる」
「その言葉、覚えておきます」
エレノアは胸が温かくなるのを感じながら、四人の顔を見回した。
最初は香りの異常を嗅ぐだけの、関係のない侍女だった。しかし気がつけば、こんなにも信頼できる人たちが傍にいた。
(この王宮で受け取ったものは……本当に多い)
談話室を出て、夕暮れの廊下を歩きながら、エレノアは母の形見の香りをそっと手首に落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
その夜、王太子の執務室で香油の調整をしていると、ラインハルトが静かに声をかけてきた。
「騎士団の若手と話していたようだな」
「はい。大宴の後、きちんと話せていなかったので」
「そうか」
王太子は書類から目を上げ、エレノアを見た。
「香房の取りまとめは、負担ではないか」
「慣れてきました。ただ……ハインリヒ首席が一人で抱えていた仕事の量には、少し驚きました」
「後任は近いうちに決める。それまでは頼む」
「はい」
エレノアは答えながら、ラインハルトの使う香油の調整を続けた。
ラベンダーとサンダルウッド。疲労を和らげる、穏やかな調合。
「殿下は……最近、よく眠れていますか」
「問題ない」
即答だった。しかしその声音に、わずかな疲れが滲んでいた。
「嘘をついても、香りでわかりますよ」
エレノアは静かに言った。
ラインハルトは少し間を置いてから、短く言った。
「……少し、眠りが浅い」
「大宴の後ですから、当然だと思います。今日の香油にカモミールを少し加えましょう」
「お前は……本当に、よく気がつく」
それは独り言のような言葉だった。
エレノアは答えなかった。ただ、丁寧に香油の調整を続けた。
部屋を辞す際、ラインハルトが静かに言った。
「無理はするなよ」
「はい、殿下」
廊下に出て、エレノアは静かに息を吐いた。
(無理はするな、か)
その言葉をかけられるたびに、胸の奥が少しだけざわめく。
目立ちたくないと思いながら来た王宮で、こんなにも多くの人に心配される存在になってしまった。
それが重荷かと言えば、そうではない。
ただ——その分だけ、いつかここを去る日が、少し遠くなる気がした。
夜の廊下に、カモミールとラベンダーの穏やかな香りが静かに漂っていた。




