第52話 弟分と庭
翌日の朝、エレノアは香房で通常の仕事に戻っていた。
ハインリヒが不在となった香房は、しばらくの間エレノアが実質的な取りまとめ役を担うことになった。ラインハルトからの指示だった。正式な後任が決まるまでの間、香房の調合と管理を任されることになったのだ。
目立ちたくないと思っていたのに、気がつけばこの有様だ。
エレノアは苦笑しながら、朝の在庫確認を進めた。昼過ぎ、バルドゥール卿から短い書状が届いた。
『薔薇園、午後』
それだけの簡素な書状だった。昨日は執務室で多くを話した。今日は何を話すつもりなのだろうと思いながら、エレノアは指定の時間に薔薇園へ向かった。
バルドゥール卿はすでにそこにいた。
いつもの濃紺の上着、無表情な横顔。しかし昨日とは少し違う。どこか、肩の力が僅かに抜けているように見えた。
「昨日は……話しすぎたな」
エレノアが近づくと、卿は前置きなく言った。
「そんなことはありません」
「私はああいう話が得意ではない」
「存じております」
卿はエレノアをちらりと見て、何も言わなかった。エレノアは卿の傍のベンチに腰を下ろし、静かに続けた。
「ただ……話してくださって、よかったと思っています」
バルドゥール卿は薔薇の花壇に視線を向けたまま、短く鼻を鳴らした。肯定とも否定とも取れない、いつもの反応だった。
しばらく沈黙が続いた。
春の風が薔薇園を吹き抜け、甘い香りが二人の間を流れた。
「マリアは……ここの薔薇が好きだったな」
卿が唐突に言った。
「やはりそうだったのですね。白い薔薇を調合の最後に必ずダマスクローズをひと滴加えるのが癖でした。」
「知っている」
卿は静かに言った。
「ハルトマン家の庭にも薔薇があった。マリアはいつもそこで調合の練習をしていた。私はその傍で、読み物をするふりをしながら見ていた」
エレノアはその言葉を静かに受け取った。読み物をするふりをしながら。この不器用な男が、幼い頃から姉の傍でそんな風に過ごしていたのだと思うと、胸が温かくなった。
「卿は……母の調合が好きでしたか」
「好き嫌いで言うものではないと思っていた」
少し間があった。
「……だが、マリアの調合する香りが漂ってくると、何故か落ち着いた。それだけは確かだ」
エレノアは静かに微笑んだ。
「それは好き、ということだと思います」
バルドゥール卿は何も言わなかった。しかしその横顔が、ほんのわずかだけ柔らかくなった気がした。
「卿」
「何だね」
「母の手紙に……卿のことが書いてありました」
エレノアは少し迷ってから、正直に伝えた。
「不器用だけれど、本当に優しい人だと。どうか仲良くしてあげてくださいと」
バルドゥール卿は無言だった。しばらくして、ひどく素っ気なく言った。
「……買いかぶりすぎだ」
「そうは思いません」
エレノアははっきりと答えた。
「大宴の夜、傷を負いながら単独で使者を追いかけた人のことを、不器用なだけとは言えません。それに——」
エレノアは続けた。
「八年間、母の記録を守り続けた人のことも」
バルドゥール卿は答えなかった。
視線を薔薇の花壇に向けたまま、静かに座っていた。その横顔には、いつもの冷徹な仮面がかかっていた。しかし今日は、その仮面の奥にあるものが、昨日よりほんの少しだけ透けて見える気がした。
やがて卿が、ひどく唐突に言った。
「それで、これからどうするつもりだ」
「今は、香房の取りまとめをしながら、引き続き殿下のお傍で働きます。借金もまだ残っていますので」
「それが終わったら」
エレノアは少し考えてから答えた。
「いつか……自分の工房を持ちたいと思っています。王宮ではなく、市井の小さな場所で。母のように、誰かのために香りを作れる場所を」
バルドゥール卿は何も言わなかった。しばらく沈黙した後、一言短く言った。
「……悪くない」
それだけだった。しかしエレノアには分かった。あの不器用な男にとって、それは精一杯の言葉だったのだろう。
「卿は……これからも、王宮にいらっしゃいますか」
「しばらくはいる。ヴァルター伯爵家の調査が終わるまでは」
「しばらくは、ですか」
卿はエレノアをちらりと見た。
「まだ決めていない」
素っ気ない返答だった。しかしエレノアはもう少しだけ踏み込んだ。
「もし……私が市井に工房を開いた時、卿に一番最初に香りを嗅いでいただきたいと思っています」
バルドゥール卿は一瞬、動きを止めた。エレノアを見た。いつもの感情のない瞳だったが、その奥に、何か予想外のものを受け取った時の、かすかな揺らぎがあった。
やがて卿は視線を前に戻し、素っ気なく言った。
「……考えておく」
エレノアは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
二人はまたしばらく、薔薇園の春の光の中で無言だった。それは不快な沈黙ではなかった。
血は繋がっていない。出会ったのもつい最近だ。しかしこの人は、母が信頼した人だった。母が「本当に優しい人」と書いた人であった。
エレノアには今、それだけで十分だった。
やがて卿が立ち上がる。
「戻るぞ」
「はい」
エレノアも立ち上がり、頭を下げた。卿は踵を返し、薔薇園を出ていく。その背中が見えなくなった後、エレノアはもう一度白い薔薇に目を向けた。
夕暮れにはまだ早い、柔らかな午後の光が花びらを照らしている。
母の形見の香りを手首にそっと落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
(母様……卿はちゃんと、あなたの弟でした。不器用だけれど、本当に)
薔薇の香りが風に乗って漂い、エレノアの周りをゆっくりと包んでいった。
夕方、王太子の執務室で報告を終えると、ラインハルトが静かに言った。
「ヴァルター伯爵家への正式な調査が始まった。バルドゥールが証拠をまとめて提出している」
「そうですか……」
「ハインリヒの尋問も進んでいる。お前の母のことも、正式な記録として残す。無実であったという事実を」
エレノアは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、殿下」
「礼はいい。当然のことだ」
ラインハルトは書類に視線を落としながら、短く続けた。
「お前の家の借金についても……ヴォルフ公爵家の不正が明らかになれば、返済額の見直しができる可能性がある。今、調査を進めている」
エレノアは顔を上げた。
「殿下、それは——」
「私が言ったわけではない。当然の判断をしただけだ」
王太子は書類から目を上げず、淡々と言った。しかしその言葉の奥に、エレノアへの配慮が静かに滲んでいた。
エレノアは再び深く頭を下げた。
部屋を辞し、廊下を歩きながら、今日一日で受け取ったものを静かに数えた。
バルドゥール卿の「悪くない」という言葉。ラインハルトの「当然のことだ」という言葉。
どちらも、素直に感謝を受け取れない不器用な言い方だった。
しかしその不器用さの中に、確かな温かさがあった。
(この王宮には……色々な人がいる)
廊下の窓から見える空は、夕暮れの橙色に染まり始めていた。
母の形見の香りが、夕暮れの冷たい空気の中で静かに漂った。
この王宮で過ごす時間が、いつか終わる日のことを、エレノアは初めてはっきりと想像した。
その日が来ることへの寂しさと、その日へ向かって歩いていく覚悟が、胸の中に静かに並んでいた。




