第51話 香りの行方
バルドゥール卿の執務室を出た後、エレノアはすぐにはラインハルトのところへ向かわなかった。
母の手紙とノートを胸に抱いたまま、王宮の廊下をゆっくりと歩いた。どこへ向かうでもなく、ただ歩いた。足が自然に向いたのは、薔薇園だった。
春の薔薇園は今が盛りだ。赤と白と淡いピンクの花が風に揺れ、甘く清らかな香りが辺りに満ちている。
エレノアは人気のない花壇の前のベンチに腰を下ろし、母のノートを膝の上に置いた。
しばらく、ただそこにいた。
涙はもう出ない。しかし胸の奥に、重いものが静かに沈んでいた。
母は知っていたのだ。自分が追い詰められていることを。娘がいつかこの王宮に来るかもしれないことを。そしてバルドゥール卿が、不器用なままでも姪を守ってくれるだろうことを。
(母様は……全部、分かっていたのね)
だから記録を預け、手紙を書いた。自分がいなくなった後のことを、丁寧に用意して逝った。
エレノアは白い薔薇の花びらに指先でそっと触れた。母が好きだった品種と同じその薔薇を。
どのくらいそこにいたか、分からない。
春の光が少しずつ傾き、薔薇園の影が長くなり始めた頃、足音が聞こえた。一人分の、迷いのない足音だった。
「ここにいたのか」
低い声に振り返ると、ラインハルトが薔薇園の入り口に立っていた。
エレノアは慌てて立ち上がろうとした。しかし王太子は手で制し、静かに近づいてきた。
「殿下……報告が遅くなり、申し訳ありません。つい、ぼんやりしてしまって」
「いやいい。ただ、遅いから探したぞ」
ラインハルトはそれだけ言い、エレノアの向かいのベンチに腰を下ろした。
王太子がこうして人気のない場所に一人で来ることは、まずなかった。護衛もなく、側近もなく、ただ一人でエレノアを探しに来たという事実が、じわじわと胸に染み込んできた。
「……何かあったのか」
ラインハルトはエレノアの顔を見ていた。泣いた後だと、分かっているはずだった。
「はい。色々と……知ることができました」
エレノアは静かに、バルドゥール卿から聞いたことを話した。
母とバルドゥール卿がハルトマン家で姉弟同然に育ったこと。血は繋がっていないが、卿にとって母は唯一の家族同然の存在だったこと。母が王宮を去る直前に記録と手紙を預けたこと。そして——母の手紙に書かれていた言葉のこと。
ラインハルトは黙って聞いていた。
話し終えると、しばらく沈黙が落ちた。春の風が薔薇園を吹き抜け、花びらが一枚、二人の間の石畳に舞い落ちた。
「バルドゥールが……マリアの弟分だったとは」
「はい。血は繋がっていませんが、それ以上の何かがあったようです」
「だからあれほど、この件に執着していたのか」
ラインハルトは静かに頷いた。そして少し間を置いて、エレノアを見た。
「お前の母は……不当に追い詰められた。それははっきりしている。今後の調査で、ハインリヒの罪と共にその事実も明らかにする」
「……ありがとうございます、殿下」
エレノアは深く頭を下げた。王太子はしばらくエレノアを見ていた。
夕暮れの光が薔薇園を橙色に染め始め、花びらが金色に輝いている。
「お前は今日……どんな一日だったと思う」
それは唐突な問いかけだった。エレノアは少し考え、正直に答えた。
「重いものを受け取った一日だったと思います。でも……軽くもなった気がします」
「軽く……か」
「はい。知らないままでいることの重さが、ずっとありました。母のことを知りたくて、でも知るのが怖くて。それが……今日、少し解けた気がします」
ラインハルトは何も言わなかった。ただ、エレノアの言葉を静かに受け止めているようだった。
やがて王太子は視線を薔薇の花壇に向け、静かに言った。
「私も……知らないままでいることの重さは、分かる気がする」
その言葉の奥に、何が含まれているのか、エレノアには分かった。しかし何も言わなかった。二人はしばらく、薔薇園の夕暮れの中に並んで座っていた。
言葉はなかった。しかしその沈黙は、決して不快なものではなかった。
冷たい鋼と清潔な石鹸と、森林のほのかな香り。薔薇の甘い香りの中に、ラインハルトの香りが静かに混じっていた。
エレノアはその香りを、胸の奥にそっとしまった。
(この香りを……いつまで、嗅いでいられるのだろう)
その思いが、自分でも意外なほど、胸に重く沈んだ。
やがてラインハルトが立ち上がった。
「戻るぞ。悪いがいつまでもここにいるわけにはいかないからな」
「はい」
エレノアも立ち上がり、母のノートを胸に抱いた。薔薇園を出る前に、エレノアは振り返った。
夕暮れの光の中で揺れる白い薔薇が、橙色に染まっている。
(母様……私はまだ、自分の心が何を嗅いでいるのか、分からないでいます)
ラインハルトのこと。この王宮のこと。母のこと。そして自分の夢。全てが同時に胸の中にあって、どれが本当の気持ちなのか、まだ整理がつかなかった。
母の形見の香りを手首にそっと落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
二人は並んで薔薇園を後にした。
廊下を歩きながら、エレノアはふと思った。いつか、自分の工房を持ちたい。王宮ではなく、市井の小さな場所で。目立たず、静かに、香りだけを嗅いでいられる場所で。
その言葉はまだ、誰にも言っていなかった。
しかし初めて、その先の景色が、うっすらと見えた気がした。
(母様が作りたかった場所を……私が作る)
夕暮れの廊下に、薔薇の残り香が静かに漂っていた。




