第50話 母の真実
大宴から三日後の朝、バルドゥール卿からエレノアに書状が届いた。
今回は珍しく、場所と時間が丁寧に記され一言添えられていた。
『私の執務室へ来い。一人で』
エレノアはラインハルトにその書状を見せた。王太子は無言で一読し、短く言った。
「行け。ただし終わったら必ず報告しろ」
午後、エレノアはバルドゥール卿の執務室を訪ねた。
卿の執務室は王宮の外廷の端にある、装飾のない質素な部屋だった。余計な調度品は一切なく、棚には書類と写本が整然と並んでいる。窓から見える景色は王宮の石壁と、その向こうに広がる青空だけだった。
バルドゥール卿は執務机の前に座っていた。左腕の包帯はまだ巻かれているが、表情はいつもと変わらない。感情を映していない、冷たい灰色の瞳。
「座れ」
エレノアは向かいの椅子に腰を下ろした。
卿はしばらく無言だった。机の上には、一冊の古いノートと数枚の羊皮紙が置かれていた。
エレノアはそのノートを見て、息を飲んだ。母の筆跡だったのだ。
「それは……」
「マリアが私に預けたものだ。調合記録の原本と、もう一つ」
バルドゥール卿はノートをエレノアの前に静かに置いた。
「読んでいい」
エレノアは震える手でノートを開いた。
最初の数ページは調合の記録だった。しかしページを進めると、調合の記録ではない文章が始まった。母の几帳面な筆跡で、丁寧に記された言葉が並んでいた。
『もしこれを誰かが読むことになるなら、それは私がもうここにいない時だろう。だから正直に書いておく』
エレノアは唇を噛みながら、続きを読んだ。
母は八年前、王宮の香房で働いていた頃、ハインリヒから「特別な調合」を命じられたと書いていた。対象は当時の国王の側近。命じられた香りは、特定の記憶だけを選んで消す「忘却の霧」の第三調合だった。
しかし母は書いていた。
『私はその命令を断った。何度も断った。しかしハインリヒは私の家族を盾にした。男爵家の借金を暴露すると言った。娘のことを持ち出した』
エレノアの手が止まった。娘。それは、エレノアのことだった。
母は続けていた。
『私は結局、調合してしまった。しかし私が作ったのは「忘却の霧」の第一調合だけ。記憶を完全に消すのではなく、ただ霞ませる程度のものを。それでもハインリヒを欺くには十分だった。しかし後悔している。あの方の記憶を、たとえ僅かでも侵したことを』
ページをめくると、さらに続きがあった。
『私が恐れているのは、ハインリヒがいつか本物の第三調合を別の誰かに作らせることだ。私の記録を改ざんして、罪を私に着せるかもしれない。だからこの記録を、信頼できる人に預ける。バルドゥールに』
エレノアは顔を上げた。
バルドゥール卿を見た。卿は机の前で、いつもと同じ無表情で座っていた。しかしその両手が、机の上で静かに握りしめられていた。
「卿と母は……どのようなご関係だったのですか」
バルドゥール卿はしばらく答えなかった。窓の外に視線を向け、石壁の向こうの青空を見ていたか。やがて、短く言った。
「ハルトマン家で、共に育った」
「……ハルトマン家、というのは」
「私の家だ。マリアは幼い頃、ハルトマン家に引き取られていた」
エレノアは静かに息を飲んだ。
「では、血は……」
「繋がっていない」
卿は淡々と言った。
「マリアの実家は小さな商家で、両親が早くに亡くなった。遠縁を辿ってハルトマン家に引き取られたのは、彼女が七歳の時だ」
エレノアは黙って聞いていた。
「私は当時五歳だった。突然やってきた女の子が、最初は疎ましかった。しかし……」
バルドゥール卿は一瞬、言葉を止めた。
「気がつけば、姉のように思っていた」
その言葉は、ひどく静かだった。感情を込めないようにしているのに、それでも滲み出てくるものがある。エレノアはその声音の奥に、長い年月の重さを感じた。
「マリアは香りが好きだった。庭の花を摘んでは、いつも何かを調合していた。私はその傍で、ただ見ていた」
「……卿が、母の調合を見ていたのですか」
「ああ。出来の悪い弟分だったが、それだけは欠かさなかった」
出来の悪い弟分。その言葉が、エレノアの胸に静かに刺さった。この無愛想で冷徹な男が、幼い頃は姉の傍でそんな風に過ごしていたのだと思うと、胸が痛かった。
「マリアが独立し市井に降りてからも、密かに連絡を取り続けていた。だから男爵家に嫁いだことも王宮に来ることになった時も知っていた。しかし……口を出せる立場ではなかった」
「なぜですか」
「血が繋がっていないからだ。私がマリアに関わることで、余計な詮索を招く可能性があった。彼女もそれを分かっていたから、ハルトマン家との縁は表向き切れている」
エレノアは静かに頷いた。血が繋がっていないからこそ、守りたくても守れない。関われば逆に傷つける。その苦しさが、バルドゥール卿をあの無愛想な仮面の奥に閉じ込めてきたのかもしれなかった。
「では……母が記録を卿に預けたのは」
「最後の手段だったはずだ」
バルドゥール卿の声が、わずかに低くなった。
「マリアは追い詰められていた。ハインリヒに利用され、身動きが取れなくなっていた。王宮を去る直前、私に会いに来た。記録と、もう一つを渡して……それが最後だった」
「もう一つ、というのは」
卿は机の上の羊皮紙を一枚取り、エレノアの前に置いた。
『エレノアへ』
それは母の筆跡だった。エレノアは震える手でそれを広げた。
『あなたが大人になった頃、これを読んでいることを願っています。あなたに謝らなければならないことがたくさんあります。でも一番謝りたいのは、あなたの嗅覚のことです。あなたの鼻は私から受け継いだもの。だからあなたを危険な場所に引き寄せてしまうかもしれない。それが怖かった。でも同時に——あなたの鼻は、きっと誰かを守ることができると信じています。私が守れなかった誰かを、あなたの香りが守ってくれることを、母は願っています。そしてもし、バルドゥールに会うことがあれば——あの人は不器用だけれど、本当に優しい人です。どうか、仲良くしてあげてください』
エレノアは手紙を読み終えた後、しばらく動けなかった。涙が出るとは思っていなかった。しかし気がつくと、手紙の文字がにじんで見えた。
バルドゥール卿は何も言わなかった。ただ、エレノアが泣き止むまで、静かにそこにいた。
どのくらい時間が経ったか分からなかった。エレノアはゆっくりと顔を上げ、目元を拭い、静かに息を整えた。
「卿は……母のことを、ずっと家族だと思っていたのですね」
バルドゥール卿は答えなかった。しかし視線を窓の外に向けたまま、ひどく小さな声で言った。
「あぁ……だが、守れなかった」
その一言に、八年分の重さが滲んでいた。血が繋がっていなくても、姉だと思っていた。だから守りたかった。しかし守れなかった。その事実が、この男の中でずっと、石のように沈んでいたのだと、エレノアには分かった。
エレノアは静かに立ち上がり、母の手紙とノートを胸に抱いた。
「卿」
バルドゥール卿がエレノアを見た。
「母は……卿のことを、本当の家族だと思っていたと思います。血が繋がっていなくても」
卿は何も言わなかった。しかしその灰色の瞳が、一瞬だけ、これまで見たことのない何かを映した。
エレノアは深く頭を下げ、執務室を辞した。廊下に出ると、春の光が石畳に降り注いでいる。
エレノアは歩きながら、母の形見の香りをそっと手首に落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
(母様……あなたは私を守ろうとしていた。卿も、ずっとそうしていた。血が繋がっていなくても、あの人はあなたの家族だった)
目立たないように生きたいと思って王宮に来た。借金を返すだけのつもりだった。しかしこの一年間で、エレノアは多くのものを得ていた。
騎士たちの信頼。リリアとソフィーの友情。バルドゥール卿という、不器用な母の弟分の存在。そして——ラインハルトとの、言葉にできない何か。
王宮の廊下を歩きながら、エレノアは静かに思った。
(この場所で受け取ったものを……私はどこへ持って行くのだろう)
答えはまだ、出ていなかった。




