第49話 冷たい石鹸と森林の香
大宴の翌日、王宮は静かだった。
昨夜の騒ぎの後始末が粛々と進んでいた。ハインリヒと使者たちの身柄は騎士団の管理下に置かれ、ヴァルター伯爵家への調査が正式に開始されたという報告も届いた。国王陛下はご無事で、大宴の混乱についての公式な発表は数日後になるとのことだった。
香房は首席不在のまま、下級調香師たちが互いに顔を見合わせながら静かに仕事を続けていた。
エレノアもいつものように作業台に向かいながら、昨夜のことを頭の中で整理しようとしていた。
ハインリヒの失脚。使者たちの身柄確保。バルドゥール卿の傷。
そして——ラインハルトの「落ち着いてから話そう」という言葉。
それが、朝からずっと胸の奥に引っかかっていた。
(何を、話すのだろう)
考えようとするたびに、別の何かがそれを押しとどめた。想像することが、少し怖かった。
昼前、廊下を歩いていると、角からバルドゥール卿が現れた。左腕に包帯が巻かれているが、歩き方は普段と変わらない。
「卿、傷の具合はいかがですか」
「問題ない」
相変わらず素っ気ない返答だった。しかし卿はエレノアの前で足を止め、珍しくあちらから口を開いた。
「昨夜の礼を言っていなかったな……ありがとう」
「いえ、私は当然のことをしただけです」
卿はエレノアをしばらく見ていた。灰色の瞳に、何かをはかるような光があった。
「マリアのことは、近いうちに話す」
それだけ言い、踵を返した。
エレノアはその背中に、静かに頭を下げた。
整理がついていない、と昨夜言っていた。あの無愛想な男が、整理できないほどの何かを、八年間抱えていたということだ。
(卿も……昨夜、色々なものが動いたのね)
午後、エレノアは王太子の執務室へ向かった。
扉を軽く叩くと、「入れ」という低い声が返ってきた。
室内に入ると、ラインハルトは執務机に向かっていた。しかし書類を読んでいるというより、ただそこに視線を落としているだけのようにも見えた。
「殿下、参りました」
「ああ」
王太子は顔を上げた。エレノアをひと目見て、短く言った。
「今日の仕事は後でいい。とりあえず座れ」
エレノアは戸惑いながらも、執務机の前の椅子に腰を下ろした。ラインハルトが部下に椅子を勧めることは、まずない。
王太子はしばらくの間、無言だった。
窓の外では春の風が木々を揺らし、柔らかな光が執務室の石の床に落ちている。冷たい鋼と清潔な石鹸、そしてほのかな森林の香りが、静かに漂っていた。
エレノアはその香りを、改めて胸の奥に刻み込んだ。
一年間、毎日嗅いできた香り。最初は冷たくて近寄りがたいと思っていたのに、いつの間にか、この香りが漂う場所が、自分にとって安心できる場所になっていた。
「昨夜、話すと言っていたことがあるな」
ラインハルトが静かに口を開いた。
「はい」
エレノアは膝の上で手を重ね、静かに答えた。
王太子は窓の外に視線を向けたまま、ゆっくりと話し始めた。
「お前が王宮に来て、もうすぐ一年になる」
「はい」
「一年前、私はお前のことを道具だと思っていた。有用な鼻を持つ、使い勝手の良い侍女だと」
エレノアは何も言わなかった。それは事実だったし、エレノア自身も最初はそのつもりでいた。目立たず、香りを嗅ぎ、借金を返す。それだけのつもりで、この王宮に来た。
「今も、その考えが完全に消えたわけではない」
ラインハルトは窓から視線を外し、エレノアを見た。銀灰色の瞳が、静かにエレノアを捉える。
「しかし……お前のことを考える時間が、増えた」
エレノアの胸が、静かに跳ねた。
「お前が危険な場所に踏み込む時。お前が一人で動く時。お前が傷つくかもしれないと思った時——私は、それを考えるのが嫌だと思うようになってしまった」
ラインハルトの声は低く、いつもと同じように感情を抑えていた。しかしその言葉の一つ一つに、普段とは違う重みがあった。
「それが何を意味するのか、私自身よくわかっているつもりだ」
王太子は一瞬、目を伏せた。
「わかっているからこそ……言葉にするべきではないとも、ずっと思っていた」
沈黙が落ちた。
春の風が窓を揺らし、外から鳥の声が遠く聞こえてくる。
エレノアは膝の上の手を、静かに握りしめた。
胸の奥で何かが大きく揺れていた。温かく、しかし同時に、冷たい現実が静かに押し寄せてくる感覚。
王太子と侍女。王国の後継者と没落した男爵家の娘。その間にある距離は、どんな感情でも埋められるものではない。それはエレノアも分かっていた。
「殿下……」
「安心しろ、答えは求めていない」
ラインハルトは静かに遮った。
「ただ……言わずにいることが、できなかった。それだけだ」
執務室に、深い沈黙が落ちた。
エレノアはしばらく、自分の手の甲を見つめていた。
何か言わなければと思った。しかしどんな言葉も、この沈黙には追いつかない気がした。謝ることも、喜ぶことも、どちらも違う気がした。
やがて、エレノアは静かに口を開いた。
「……私は、目立たないように生きたいと思ってここに来ました」
「知っている」
「それなのに……殿下のお傍にいると、いつも目立ってしまいます」
ラインハルトの口元が、わずかに動いた。
「それはお前の鼻のせいだ」
「ふふ、そうかもしれません」
エレノアは静かに続けた。
「殿下のお傍にいたこの一年……私は、香りだけでは分からない多くのものを見せていただきました。人の心の複雑さを。そして——」
エレノアは一瞬、言葉を止めた。
「殿下が、思っていたよりずっと……人間らしい方だということも」
ラインハルトはエレノアを見ていた。その表情には、普段の仮面が完全には戻っていなかった。
「人間らしい、か」
「はい。薔薇園で一人で空を見上げていた殿下を、見たことがあります。お母様の香りを再現した時の殿下の顔も、覚えています」
王太子は何も言わなかった。
「私も……殿下のことを、ただの王太子としてだけ見ていたわけでは、ありませんでした」
それだけ言うのが、エレノアの精一杯だった。
それ以上は言えなかった。言ってはいけないと、胸の中の何かが静かに告げていた。言葉にした瞬間、何かが取り返しのつかない方向へと向かってしまう気がした。
ラインハルトはしばらくエレノアを見ていた。
その視線に、エレノアは目を合わせることができなかった。視線を膝の上に落としたまま、ただ静かに呼吸をしていた。
やがて、王太子は静かに息を吐いた。
「……そうか」
たった一言だった。
しかしその一言に、様々なものが詰まっているように、エレノアには感じられた。
受け止めた、という重さ。そして、それ以上には踏み込まないという、静かな決意のようなもの。
「今日の仕事を始めてくれ」
ラインハルトは静かに言い、書類に視線を落とした。
「はい、殿下」
エレノアは立ち上がり、深く頭を下げた。
香油の調整を始めながら、エレノアは窓の外に広がる春の景色を、視界の端に捉えていた。
青い空。風に揺れる木々。遠くに見える王都の屋根。
(この場所で……私は一年間、生きてきた)
目立たないようにと思っていたのに、いつの間にか多くの人に囲まれていた。危険な事件に何度も巻き込まれ、母の秘密に近づき、そして——目立ちたくないはずの自分が、この王宮でしか嗅ぐことのできない香りを、大切に思うようになっていた。
冷たい鋼と、清潔な石鹸と、森林のほのかな香り。
エレノアは静かに目を伏せた。
(これは……どこにも行けない感情だ)
手首に母の形見の香りをそっと落とした。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
春の風が執務室の窓を静かに揺らし、二人の間を、ゆっくりと流れていった。




