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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

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第48話 夜が明ける前に

 渡り廊下から広間へ戻ると、騒ぎはすでに落ち着きを取り戻しつつあった。


 倒れていた貴族たちは新鮮な空気を吸い、ほとんどの者が意識を取り戻している。国王陛下は控えの間で側近たちに囲まれ、ご無事との報告が入っていた。ハインリヒは騎士団に身柄を確保され、広間の外に連行されていた。取り押さえられた使者二名も同様である。


 ガスパールが逃げた三人目の使者の身柄を騎士団に引き渡し、エレノアの傍に戻ってきた。


「卿の傷は大丈夫そうか」


「深くはありませんでした。ただ、きちんと手当てが必要です」


「俺が医師のところへ連れて行こう」


 ガスパールはバルドゥール卿に声をかけようとしたが、卿はすでに広間の壁際に立ち、ラインハルトと言葉を交わしていた。二人の会話は小声で、周囲には聞こえない。


 エレノアは少し離れた場所から、その様子を静かに見ていた。


 バルドゥール卿が左腕を押さえながら、淡々と報告している。ラインハルトは黙って聞き、時折短く頷いていたが。やがて王太子の視線がエレノアに向いた。


「エレノア」


 エレノアは歩み寄った。


 ラインハルトはエレノアの顔を一瞥し、それから静かに言った。


「怪我はないな」


「はい、私は問題ありません」


「そうか」


 王太子は短く息を吐いた。その表情には普段の冷徹さが戻っていたが、ほんの少しだけ肩の力が抜けたのがわかった。


 バルドゥール卿がエレノアを一瞥した。相変わらずの無表情だったが、左腕を押さえる手に力が入っているのが見えた。


「卿、傷の手当てを先に」


 エレノアが言うと、卿は短く鼻を鳴らした。


「いや、後でいい」


「なりません」


 エレノアははっきりと言い返した。卿はエレノアの返答に驚きしばらく無言だった。ラインハルトが見かねて静かに口を添えた。


「バルドゥール、医師のところへ行け。報告は後で良い」


 卿は一瞬だけラインハルトを見て小さく頭を下げた。ガスパールが「こちらへどうぞ」と促し、二人は広間を出て行った。


 その背中を見送りながら、エレノアは胸の奥に残る言葉を反芻していた。


『マリアから、預かっていた』


 八年前、母が王宮を去る直前に、バルドゥール卿に調合記録の原本を預けた。それはつまり、母は自分の身に何かが起きるかもしれないと予感していたということだ。


(母様は知っていた。そして……卿に託した)


 なぜ卿だったのか。二人の間にどんな関係があったのか。まだ分からないことばかりだった。


「エレノア」


 ラインハルトの声に、エレノアは思考から引き戻された。


 王太子は周囲に人がいないのを確認してから、静かに言った。


「今夜は、よくやった」


「いいえ、私は香りを嗅いだだけです。皆さんが動いてくださいました」


「それがお前の役目だ。……小型香炉の見落としに気づかなければ、今頃この広間は手がつけられない状態になっていただろう」


 エレノアは静かに頭を下げた。


 ラインハルトはしばらくエレノアを見ていた。広間の片付けが始まり、使用人たちが動き回る喧騒の中で、二人の周りだけが静かだった。


「今夜の大宴が終わったら話すことがあると言っていたな」


 エレノアは顔を上げた。


「……はい」


「今夜ではなくていい。落ち着いてから話そう」


 王太子はそれだけ言い、広間の後処理に向かった。


 その背中を見ながら、エレノアは胸の奥でざわめくものを感じた。ラインハルトの話すこと。それが何なのか、エレノアには想像もつかなかった。いや、想像しようとすることが、少し怖かった。


 深夜、広間の後処理がひと段落した頃、エレノアは香房に戻った。


 リリアとソフィーが香房の前で待っていた。二人とも顔が青白い。


「エレノア!」


 リリアが駆け寄り、エレノアの腕を掴んだ。


「無事だった……よかった。広間が大変なことになったって聞いて、心配で」


「ごめんなさい、心配かけたわね。二人は大丈夫だった?」


「私たちは、言われた通り離れていたから。でも……本当に怖かったよ」


 ソフィーが小さな声で言った。エレノアはリリアの手を握り返し、静かに答えた。


「もう大丈夫。終わったから」


 三人はしばらく香房の前に立ったまま、何も言わなかった。リリアが小さく鼻をすすり、ソフィーがそっと目元を拭った。


 エレノアは二人の顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


(こんなにも心配してくれる人たちが……ここにいてくれる)


 しばらくして、リリアが顔を上げた。


「ねえ、エレノア。一つだけ聞いてもいい?」


「何?」


「バルドゥール卿って……エレノアのこと、特別に気にかけてる気がするんだけど。気のせいかな?」


 エレノアは少し黙った。


 リリアの観察眼は鋭い。エレノア自身、バルドゥール卿の自分への態度が、単なる依頼人と調香師の関係とは少し違うと感じていた。しかしその理由が何なのか、まだ分からなかった。


「……わからないわ。でも、そうかもしれない」


「やっぱり」


 リリアはそれ以上は聞かなかった。ただ、何かを察したような顔で静かに頷いた。


 香房に戻り、一人になったエレノアは作業台の前に座った。


 母のノートを開き、最後に見つけた走り書きを読み返した。


『この香りは、誰かを守るために作った。決して、傷つけるためではない。もし私が間違いを犯したとするなら、それは守りたかったからだ』


 八年前、母は誰を守ろうとしていたのか。


 バルドゥール卿との関係は何だったのか。


 そして、卿が今夜の大宴に自ら動いた本当の理由は。


 まだ、何も解けていなかった。


 しかし今夜、確かなことが一つ分かった。


 バルドゥール卿は、母の記録を八年間守り続けた。そして今夜、それを使うべき時が来たと判断し、自ら表に出ることを選んだ。


 傷を負いながら、一人で使者を追いかけて。


(あの人は……不器用だけれど、誰かを守っている)


 エレノアは母の形見の香りを手首に落とした。


 甘く、控えめで、芯の強い香り。


 窓の外に目を向けると、夜空の端がわずかに白み始めていた。


 長い夜が、ようやく明けようとしていた。

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