第47話 崩れる夜
広間の空気が、一瞬で変わった。
ハインリヒが騎士団に取り押さえられ、広間の端へと引きずられていく。貴族たちのざわめきが波のように広がり、音楽はすでに止まっていた。国王陛下は側近に何かを耳打ちし、王妃殿下は侍女たちに囲まれて席から立ち上がろうとしている。
その混乱の中で、エレノアは別のものを見ていた。
南方の使者たちの席である。
七名いた使者のうち、三名がすでに席を立っていた。混乱に紛れて広間の外へ向かおうとしている。その動きは自然体を装っていたが逃げようとしているのだと、エレノアには分かった。
「殿下!」
エレノアはラインハルトの袖をわずかに引いた。
「南方の使者、三名が広間の出口に向かっています」
王太子はすでに視線を向けていた。
「オスカー」
低く短い一言だった。広間の端に控えていたオスカーが即座に反応し、出口方向へ動いた。ディートリヒも即座に使者たちの退路に回り込む。
しかし使者たちの行動は想定よりも大胆であった。。
三名のうち一名が広間の扉まであと数歩という瞬間、懐から小さな瓶を取り出した。
エレノアは反射的に叫んでいた。
「止めて——!」
声が届くより早く、男は瓶を広間の床に叩きつける。瞬間、甘く鋭い香りが広間に広がった。
「忘却の霧」ではない。もっと強烈で、即効性のある何かだった。香りが漂い始めた瞬間から、傍にいた貴族の数名がよろめき、頭を押さえて座り込んだ。
エレノアは咄嗟に袖で鼻を覆った。
(駄目、吸い込んではいけない)
広間が混乱の渦に飲み込まれた。貴族たちが席を立ち、悲鳴が上がり、騎士団が動き始める。その混乱の中で、使者たちは出口へと駆け出した。
「取り押さえろ!」
ラインハルトの声が広間に響いた。
オスカーが出口で使者の一人に体当たりし、床に組み伏せた。ディートリヒがもう一人の腕を掴み、壁へと押しつける。しかし三人目の使者は混乱に紛れ、扉の外へ出てしまった。
エレノアは袖で鼻を覆ったまま、広間の空気を素早く分析した。
広がっている香りは強いが、持続性は無さそうだ。換気をすれば数分で薄まるだろう。しかし今この瞬間、香りを吸い込んだ者たちの状態が心配だ。
「殿下、全ての窓を開けてください。香りは拡散させれば薄まります。吸い込んだ方々に新鮮な空気を」
ラインハルトは即座に騎士団に指示を飛ばした。広間の高い窓が次々と開けられ、夜の冷たい空気が流れ込んでくる。
よろめいていた貴族たちが、少しずつ顔色を取り戻し始めた。
国王陛下は側近たちに守られ、広間の奥の控えの間へ移動していた。王妃殿下も侍女たちとともに安全な場所へ誘導されている。
エレノアは広間の空気を嗅ぎながら、残留する成分を確認した。まだわずかに異臭が漂っているが、換気によって急速に薄まっている。そして深刻な被害は出ていないようだった。
「エレノア」
ガスパールが駆け寄ってきた。その顔に、珍しく焦りの色があった。
「バルドゥール卿が——」
エレノアの胸が冷えた。
「何かあったのですか」
「逃げた三人目の使者を追って、単独で広間を出ていった。俺たちも追おうとしたが、広間を離れられなくて」
エレノアは瞬時に判断した。
「卿の後を追います」
「一人では危険だ」
「でも——」
「俺も一緒に行く」
ガスパールは迷わず言った。エレノアはラインハルトに視線を送った。
王太子はエレノアを見て短く言った。
「ガスパールと行け。ただし——」
その声に、わずかな緊張が混じっていた。
「気をつけろよ。ガスパール、頼んだぞ」
エレノアは深く頷き、ガスパールとともに広間を飛び出した。
廊下は薄暗く、遠くから騒ぎの余韻が聞こえてくる。その中でエレノアは鼻を研ぎ澄ませる。
使者の体から漂っていた金属的な香り。そして、バルドゥール卿の濃紺の上着に染み付いた、冷たく乾いた独特の香り。
「こちらです」
エレノアは迷わず北の廊下へ向かった。ガスパールは無言で後に続く。
廊下を曲がり、階段を下り、王宮の外廷へ続く渡り廊下に出た。
夜風が冷たく吹き付ける。月明かりが石畳を照らし、遠くに二つの人影が見えた。
バルドゥール卿と、逃げた使者だった。
二人は渡り廊下の中程で対峙していた。使者は短剣を構え、卿はそれを素手で受け止めようとしている。そして卿の左腕には黒い染みが広がっていた。
生々しい金属臭がする。
血だった。
エレノアは息を飲んだ。
「卿!」
ガスパールが即座に駆け出し、使者と卿の間に割り込む。騎士としての体捌きで使者の短剣の軌道を逸らし、その腕を捻り上げた。使者は短剣を落とし、石畳に膝をついた。
バルドゥール卿は壁に手をつき、静かに立っていた。左腕を右手で押さえている。傷は深くはなさそうだったが、滲み出る血が月明かりに黒く光っていた。
エレノアは駆け寄り、卿の腕の傷を確認しようとした。
「触るな」
バルドゥール卿は短く言い、エレノアの手を払った。いつもの無愛想な声だったが、わずかに息が乱れていた。
「卿、傷の手当てを——」
「後でいい」
「よくありません!」
エレノアははっきりと言い返した。
バルドゥール卿はエレノアを見た。いつもの感情のない瞳だったが、その奥に、何か普段とは違うものが揺れていた。
しばらく沈黙した後、卿は壁から手を離し、エレノアの前に左腕を差し出した。
無言の了承だった。
エレノアはハンカチを傷口に強く当て、侍女服の裾を裂いて卿の腕に巻きつけた。傷は切り傷で、深さは大したことはなかったが、放置すれば出血が続く。
「痛みますか」
「……問題ない」
「強がらないでください」
バルドゥール卿は何も言わなかった。
ガスパールは取り押さえた使者の身柄を拘束しながら、エレノアに声をかけた。
「こいつはどうする。騎士団に引き渡せばいいか?」
「はい。殿下にも報告が必要です」
エレノアはガスパールに使者の身柄を任せ、バルドゥール卿に向き直った。
卿は腕の応急処置を終えたエレノアを、静かに見ていた。
「……礼を言う」
「いいえ」
エレノアは首を振った。そして、ずっと聞きたかったことを、静かに口にした。
「卿は、母の調合記録の原本を持っていましたね。いったいどこで手に入れたのですか」
バルドゥール卿は月明かりの下で、しばらく無言だった。夜風が渡り廊下を吹き抜け、遠くから広間の喧騒の名残が聞こえてくる。とても静かで長く感じられる時間だった。
やがて卿は、ひどく静かな声で言った。
「マリアから、預かっていた」
エレノアの息が止まった。
「……いつ」
「八年前。彼女が王宮を去る直前だ」
それだけだった。しかしその言葉の重みは、エレノアの胸の奥に深く沈んでいった。
母は八年前、王宮を去る前にバルドゥール卿に記録を預けていた。それはつまり、母は自分が危険な立場にあることを知っていたということだ。そして、信頼できる誰かにそれを託した。
(母様は……卿を信頼していた)
エレノアは唇を噛み、涙をこらえた。
バルドゥール卿はエレノアを一瞥し、踵を返した。いつもの、感情を見せない背中であった。
しかし月明かりの中で、その肩はほんのわずかに、震えているように見えた。
「戻るぞ」
低く、素っ気ない声。
エレノアは静かに頷き、卿の後に続いた。
王宮の夜に、冷たい月の光が石畳を照らして続けていた。




