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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

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第47話 崩れる夜

 広間の空気が、一瞬で変わった。


 ハインリヒが騎士団に取り押さえられ、広間の端へと引きずられていく。貴族たちのざわめきが波のように広がり、音楽はすでに止まっていた。国王陛下は側近に何かを耳打ちし、王妃殿下は侍女たちに囲まれて席から立ち上がろうとしている。


 その混乱の中で、エレノアは別のものを見ていた。


 南方の使者たちの席である。


 七名いた使者のうち、三名がすでに席を立っていた。混乱に紛れて広間の外へ向かおうとしている。その動きは自然体を装っていたが逃げようとしているのだと、エレノアには分かった。


「殿下!」


 エレノアはラインハルトの袖をわずかに引いた。


「南方の使者、三名が広間の出口に向かっています」


 王太子はすでに視線を向けていた。


「オスカー」


 低く短い一言だった。広間の端に控えていたオスカーが即座に反応し、出口方向へ動いた。ディートリヒも即座に使者たちの退路に回り込む。


 しかし使者たちの行動は想定よりも大胆であった。。


 三名のうち一名が広間の扉まであと数歩という瞬間、懐から小さな瓶を取り出した。


 エレノアは反射的に叫んでいた。


「止めて——!」


 声が届くより早く、男は瓶を広間の床に叩きつける。瞬間、甘く鋭い香りが広間に広がった。


 「忘却の霧」ではない。もっと強烈で、即効性のある何かだった。香りが漂い始めた瞬間から、傍にいた貴族の数名がよろめき、頭を押さえて座り込んだ。


 エレノアは咄嗟に袖で鼻を覆った。


(駄目、吸い込んではいけない)


 広間が混乱の渦に飲み込まれた。貴族たちが席を立ち、悲鳴が上がり、騎士団が動き始める。その混乱の中で、使者たちは出口へと駆け出した。


「取り押さえろ!」


 ラインハルトの声が広間に響いた。


 オスカーが出口で使者の一人に体当たりし、床に組み伏せた。ディートリヒがもう一人の腕を掴み、壁へと押しつける。しかし三人目の使者は混乱に紛れ、扉の外へ出てしまった。


 エレノアは袖で鼻を覆ったまま、広間の空気を素早く分析した。


 広がっている香りは強いが、持続性は無さそうだ。換気をすれば数分で薄まるだろう。しかし今この瞬間、香りを吸い込んだ者たちの状態が心配だ。


「殿下、全ての窓を開けてください。香りは拡散させれば薄まります。吸い込んだ方々に新鮮な空気を」


 ラインハルトは即座に騎士団に指示を飛ばした。広間の高い窓が次々と開けられ、夜の冷たい空気が流れ込んでくる。


 よろめいていた貴族たちが、少しずつ顔色を取り戻し始めた。


 国王陛下は側近たちに守られ、広間の奥の控えの間へ移動していた。王妃殿下も侍女たちとともに安全な場所へ誘導されている。


 エレノアは広間の空気を嗅ぎながら、残留する成分を確認した。まだわずかに異臭が漂っているが、換気によって急速に薄まっている。そして深刻な被害は出ていないようだった。


「エレノア」


 ガスパールが駆け寄ってきた。その顔に、珍しく焦りの色があった。


「バルドゥール卿が——」


 エレノアの胸が冷えた。


「何かあったのですか」


「逃げた三人目の使者を追って、単独で広間を出ていった。俺たちも追おうとしたが、広間を離れられなくて」


 エレノアは瞬時に判断した。


「卿の後を追います」


「一人では危険だ」


「でも——」


「俺も一緒に行く」


 ガスパールは迷わず言った。エレノアはラインハルトに視線を送った。


 王太子はエレノアを見て短く言った。


「ガスパールと行け。ただし——」


 その声に、わずかな緊張が混じっていた。


「気をつけろよ。ガスパール、頼んだぞ」


 エレノアは深く頷き、ガスパールとともに広間を飛び出した。


 廊下は薄暗く、遠くから騒ぎの余韻が聞こえてくる。その中でエレノアは鼻を研ぎ澄ませる。


 使者の体から漂っていた金属的な香り。そして、バルドゥール卿の濃紺の上着に染み付いた、冷たく乾いた独特の香り。


「こちらです」


 エレノアは迷わず北の廊下へ向かった。ガスパールは無言で後に続く。


 廊下を曲がり、階段を下り、王宮の外廷へ続く渡り廊下に出た。


 夜風が冷たく吹き付ける。月明かりが石畳を照らし、遠くに二つの人影が見えた。


 バルドゥール卿と、逃げた使者だった。


 二人は渡り廊下の中程で対峙していた。使者は短剣を構え、卿はそれを素手で受け止めようとしている。そして卿の左腕には黒い染みが広がっていた。


 生々しい金属臭がする。

 血だった。


 エレノアは息を飲んだ。


「卿!」


 ガスパールが即座に駆け出し、使者と卿の間に割り込む。騎士としての体捌きで使者の短剣の軌道を逸らし、その腕を捻り上げた。使者は短剣を落とし、石畳に膝をついた。


 バルドゥール卿は壁に手をつき、静かに立っていた。左腕を右手で押さえている。傷は深くはなさそうだったが、滲み出る血が月明かりに黒く光っていた。


 エレノアは駆け寄り、卿の腕の傷を確認しようとした。


「触るな」


 バルドゥール卿は短く言い、エレノアの手を払った。いつもの無愛想な声だったが、わずかに息が乱れていた。


「卿、傷の手当てを——」


「後でいい」


「よくありません!」


 エレノアははっきりと言い返した。


 バルドゥール卿はエレノアを見た。いつもの感情のない瞳だったが、その奥に、何か普段とは違うものが揺れていた。


 しばらく沈黙した後、卿は壁から手を離し、エレノアの前に左腕を差し出した。


 無言の了承だった。


 エレノアはハンカチを傷口に強く当て、侍女服の裾を裂いて卿の腕に巻きつけた。傷は切り傷で、深さは大したことはなかったが、放置すれば出血が続く。


「痛みますか」


「……問題ない」


「強がらないでください」


 バルドゥール卿は何も言わなかった。


 ガスパールは取り押さえた使者の身柄を拘束しながら、エレノアに声をかけた。


「こいつはどうする。騎士団に引き渡せばいいか?」


「はい。殿下にも報告が必要です」


 エレノアはガスパールに使者の身柄を任せ、バルドゥール卿に向き直った。


 卿は腕の応急処置を終えたエレノアを、静かに見ていた。


「……礼を言う」


「いいえ」


 エレノアは首を振った。そして、ずっと聞きたかったことを、静かに口にした。


「卿は、母の調合記録の原本を持っていましたね。いったいどこで手に入れたのですか」


 バルドゥール卿は月明かりの下で、しばらく無言だった。夜風が渡り廊下を吹き抜け、遠くから広間の喧騒の名残が聞こえてくる。とても静かで長く感じられる時間だった。


 やがて卿は、ひどく静かな声で言った。


「マリアから、預かっていた」


 エレノアの息が止まった。


「……いつ」


「八年前。彼女が王宮を去る直前だ」


 それだけだった。しかしその言葉の重みは、エレノアの胸の奥に深く沈んでいった。


 母は八年前、王宮を去る前にバルドゥール卿に記録を預けていた。それはつまり、母は自分が危険な立場にあることを知っていたということだ。そして、信頼できる誰かにそれを託した。


(母様は……卿を信頼していた)


 エレノアは唇を噛み、涙をこらえた。


 バルドゥール卿はエレノアを一瞥し、踵を返した。いつもの、感情を見せない背中であった。

 しかし月明かりの中で、その肩はほんのわずかに、震えているように見えた。


「戻るぞ」


 低く、素っ気ない声。


 エレノアは静かに頷き、卿の後に続いた。


 王宮の夜に、冷たい月の光が石畳を照らして続けていた。

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