表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
47/73

第46話 春の大宴

 大宴当日の朝、王宮は夜明け前から動き始めていた。


 使用人たちは広間の最終準備に追われ、厨房からは料理の香りが絶え間なく漂い、騎士団は警護の最終確認に走り回っている。その喧騒の中で、エレノアは香房で静かに目を閉じていた。


 鼻を休ませるための、最後の時間だった。


 母から教わったことがある。大事な仕事の前には、強い香りを避け、鼻を完全に空白にしておくこと。そうすれば、どんな微かな異臭も見逃さない。


 エレノアは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 香房の朝の空気。石と木と、かすかな花の残り香。それだけが鼻の中にある。


(これでいい)


 昼前、エレノアは王太子の私室に呼ばれた。


 ラインハルトは珍しく、執務机ではなく窓辺に立っていた。朝の光が黒髪と端正な横顔を照らしている。


「今日の警護配置を最終確認した。ガスパールたちは広間の内側、バルドゥールは貴族席の周辺に配置する」


「バルドゥール卿が、正式に動かれるのですか」


「ああ。昨夜、私に直接申し出があった」


 エレノアは少し驚いた。バルドゥール卿が表に出ることを、あの男が自ら選んだということだった。


「卿は……何をするつもりなのでしょう」


「ヴァルター伯爵家の動きを直接押さえると言っていた。証拠も持っているらしい」


 ラインハルトは窓から視線を外し、エレノアをまっすぐに見た。


「お前は今夜、私の傍で香りだけに集中しろ。広間全体の空気を常に嗅いでいてくれ」


「はい、殿下」


「それと——」


 王太子は一瞬、言葉を止めた。


「今後のことについて、今夜終わってから話す」


 何を話すのか、エレノアには分からなかった。しかしその言葉には、普段のラインハルトにはない、何か個人的な重みがあった。


 エレノアは深く頭を下げ、私室を辞した。


 夕刻、大宴が始まった。


 大広間は眩いほどの光に満ちていた。数百本の蠟燭が灯され、シャンデリアが黄金色の光を降り注いでいる。貴族たちの華やかな衣装、宝石の輝き、笑い声と音楽が重なり合い、王国最大の祝宴にふさわしい煌びやかな空間が広がっていた。


 エレノアは王太子の斜め後ろに控え、壁際に立っていた。


 地味な侍女服に身を包んでいるため、誰もエレノアを特別な存在とは思わない。ただの香房の係として、誰の目にも留まらない場所に立っていた。


(これが、私の場所)


 エレノアは静かに鼻を澄ませた。


 広間全体の空気を嗅ぐ。蠟燭の蜜蝋、貴族たちの香水、料理の香り、ワインの甘さ——それらの層を一つ一つ分けながら、異常を探していく。


 最初の一時間は、何も起こらなかった。


 音楽が流れ、国王陛下が杯を掲げ、貴族たちが歓声を上げる。南方の使者たちも笑顔で席につき、表向きは和やかな宴が続いていた。


 エレノアは視線を動かしながら、ハインリヒの姿を探した。


 首席調香師は広間の端、香炉の管理係として控えていた。その表情は普段と変わらない。しかし体から漂う重厚なムスクの香りに、冷や汗の臭いが混じっているのをエレノアは感じ取った。


(緊張している。仕込みが成功していると思い込んで、効果を待っている)


 宴が始まって一時間半が過ぎた頃、エレノアの鼻が反応した。


 広間の中央付近の空気が、わずかに変化していた。


 入れ替えたはずの香炉から、微かな異臭が漂い始めていた。


(まだ、別の仕込みがあったのね)


 エレノアは素早く頭を動かした。昨日確認した香炉は全て入れ替えたはずだった。しかし広間には他にも装飾用の小型香炉がいくつも置かれており、それらは確認の対象に入っていなかった。


(見落としていた、わたしの失態だわ)


 エレノアはラインハルトの袖をごく僅かに引いた。


 王太子は自然な動作で身を傾け、エレノアの小声を聞いた。


「広間の中央、装飾用の小型香炉に異常があります。昨日の確認漏れです。申し訳ありません。」


 ラインハルトの表情は変わらなかった。しかし指先が、わずかに動いた。


 合図だった。


 ガスパールが広間の内側から自然な動作で中央に近づき、さりげなく小型香炉の位置を確認し始めた。ルーカスがその動きをカバーするように人の流れを誘導する。ディートリヒは広間の入り口付近に移動し、退路を塞ぐように立った。


 しかし次の瞬間、エレノアは息を飲んだ。


 ハインリヒが動いたのだ。


 首席調香師は自然な動作で広間を横切り、国王の席に近い大型香炉の傍に近づいた。手に小さな瓶を持っている。昨日の入れ替えに気づき、今夜直接仕込もうとしているのだ。


 エレノアはラインハルトに視線を送った。


 王太子はすでに見ていた。


 しかしハインリヒが動き終えるより先に、別の人影が動いた。


 バルドゥール卿だった。


 貴族席の周辺に控えていた卿が、音もなくハインリヒの前に立ちふさがった。その動きは素早く、無駄がなく、まるで最初からそこにいたかのように自然だった。


「ハインリヒ・フォン・シュナイダー」


 バルドゥール卿の声は低く、しかし広間の喧騒の中でもはっきりと届いた。


「その瓶を置け」


 ハインリヒの顔色が変わった。


「バ、バルドゥール卿……何をなさいますか。私はただ香炉の調整を——」


「その瓶の中身は、神経を侵す毒性香料だ。三年前から集めてきた証拠がある」


 卿は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「ヴァルター伯爵家との取引記録、南方産毒性香料の搬入記録、そして八年前の側近暗殺事件との関連。全てここにある」


 広間がざわめき始めた。


 貴族たちが何事かと振り返り、音楽が止まり、国王陛下が席から身を乗り出した。


 ハインリヒは青ざめ、後退しようとした。しかしその背後に、ディートリヒが静かに立っていた。逃げ場はなかった。


「離せ……離せ! 私は何もしていない! 証拠など——」


「ある」


 バルドゥール卿は静かに言い、さらにもう一枚の羊皮紙を取り出した。


「マリア・ローゼンフェルトの調合記録の原本だ。お前が書き換えた記録との筆跡の差異は、専門家が見れば一目瞭然だろう」


 エレノアの胸が大きく跳ねた。


 母の調合記録の、原本。


 バルドゥール卿はそれを持っていた。いつから。どこで。


 ハインリヒの顔が歪んだ。怒りと恐怖が混じり合い、みっともないほど露骨に表情に出ている。


「マリアは……あの女は自分から調合したんだ! 私はなにも——」


「黙れ」


 バルドゥール卿の声が、低く鋭く広間に響いた。


 それはこれまでエレノアが聞いたことのない、感情の混じった声だった。


 静かだったが、その奥に、長い年月の怒りが圧縮されているような、重い響きがあった。


 広間が静まり返った。


 ラインハルトが静かに前に出た。王太子としての、揺るぎない存在感が広間を支配する。


「ハインリヒ・フォン・シュナイダー。王宮香房首席調香師の職を即刻剥奪する。騎士団、身柄を確保せよ」


 ガスパールとルーカスが素早く動き、ハインリヒの両腕を押さえた。


 広間がざわめきの渦に包まれる中、エレノアはただ静かに立っていた。


 視線はバルドゥール卿に向いていた。


 卿は羊皮紙をラインハルトに手渡し、踵を返しかけた。しかしエレノアと目が合った瞬間、一瞬だけ足を止めた。


 何も言わなかった。


 しかしその灰色の瞳が、ほんのわずかだけ、これまでとは違う何かを映していた。


 エレノアは胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えながら、静かに頭を下げた。


 母の形見の香りが、広間の喧騒の中で静かに漂った。


 大宴の夜は、まだ終わっていなかった。


 広間の奥、南方の使者たちの席が、ざわめきの中で静かに動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ