第46話 春の大宴
大宴当日の朝、王宮は夜明け前から動き始めていた。
使用人たちは広間の最終準備に追われ、厨房からは料理の香りが絶え間なく漂い、騎士団は警護の最終確認に走り回っている。その喧騒の中で、エレノアは香房で静かに目を閉じていた。
鼻を休ませるための、最後の時間だった。
母から教わったことがある。大事な仕事の前には、強い香りを避け、鼻を完全に空白にしておくこと。そうすれば、どんな微かな異臭も見逃さない。
エレノアは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
香房の朝の空気。石と木と、かすかな花の残り香。それだけが鼻の中にある。
(これでいい)
昼前、エレノアは王太子の私室に呼ばれた。
ラインハルトは珍しく、執務机ではなく窓辺に立っていた。朝の光が黒髪と端正な横顔を照らしている。
「今日の警護配置を最終確認した。ガスパールたちは広間の内側、バルドゥールは貴族席の周辺に配置する」
「バルドゥール卿が、正式に動かれるのですか」
「ああ。昨夜、私に直接申し出があった」
エレノアは少し驚いた。バルドゥール卿が表に出ることを、あの男が自ら選んだということだった。
「卿は……何をするつもりなのでしょう」
「ヴァルター伯爵家の動きを直接押さえると言っていた。証拠も持っているらしい」
ラインハルトは窓から視線を外し、エレノアをまっすぐに見た。
「お前は今夜、私の傍で香りだけに集中しろ。広間全体の空気を常に嗅いでいてくれ」
「はい、殿下」
「それと——」
王太子は一瞬、言葉を止めた。
「今後のことについて、今夜終わってから話す」
何を話すのか、エレノアには分からなかった。しかしその言葉には、普段のラインハルトにはない、何か個人的な重みがあった。
エレノアは深く頭を下げ、私室を辞した。
夕刻、大宴が始まった。
大広間は眩いほどの光に満ちていた。数百本の蠟燭が灯され、シャンデリアが黄金色の光を降り注いでいる。貴族たちの華やかな衣装、宝石の輝き、笑い声と音楽が重なり合い、王国最大の祝宴にふさわしい煌びやかな空間が広がっていた。
エレノアは王太子の斜め後ろに控え、壁際に立っていた。
地味な侍女服に身を包んでいるため、誰もエレノアを特別な存在とは思わない。ただの香房の係として、誰の目にも留まらない場所に立っていた。
(これが、私の場所)
エレノアは静かに鼻を澄ませた。
広間全体の空気を嗅ぐ。蠟燭の蜜蝋、貴族たちの香水、料理の香り、ワインの甘さ——それらの層を一つ一つ分けながら、異常を探していく。
最初の一時間は、何も起こらなかった。
音楽が流れ、国王陛下が杯を掲げ、貴族たちが歓声を上げる。南方の使者たちも笑顔で席につき、表向きは和やかな宴が続いていた。
エレノアは視線を動かしながら、ハインリヒの姿を探した。
首席調香師は広間の端、香炉の管理係として控えていた。その表情は普段と変わらない。しかし体から漂う重厚なムスクの香りに、冷や汗の臭いが混じっているのをエレノアは感じ取った。
(緊張している。仕込みが成功していると思い込んで、効果を待っている)
宴が始まって一時間半が過ぎた頃、エレノアの鼻が反応した。
広間の中央付近の空気が、わずかに変化していた。
入れ替えたはずの香炉から、微かな異臭が漂い始めていた。
(まだ、別の仕込みがあったのね)
エレノアは素早く頭を動かした。昨日確認した香炉は全て入れ替えたはずだった。しかし広間には他にも装飾用の小型香炉がいくつも置かれており、それらは確認の対象に入っていなかった。
(見落としていた、わたしの失態だわ)
エレノアはラインハルトの袖をごく僅かに引いた。
王太子は自然な動作で身を傾け、エレノアの小声を聞いた。
「広間の中央、装飾用の小型香炉に異常があります。昨日の確認漏れです。申し訳ありません。」
ラインハルトの表情は変わらなかった。しかし指先が、わずかに動いた。
合図だった。
ガスパールが広間の内側から自然な動作で中央に近づき、さりげなく小型香炉の位置を確認し始めた。ルーカスがその動きをカバーするように人の流れを誘導する。ディートリヒは広間の入り口付近に移動し、退路を塞ぐように立った。
しかし次の瞬間、エレノアは息を飲んだ。
ハインリヒが動いたのだ。
首席調香師は自然な動作で広間を横切り、国王の席に近い大型香炉の傍に近づいた。手に小さな瓶を持っている。昨日の入れ替えに気づき、今夜直接仕込もうとしているのだ。
エレノアはラインハルトに視線を送った。
王太子はすでに見ていた。
しかしハインリヒが動き終えるより先に、別の人影が動いた。
バルドゥール卿だった。
貴族席の周辺に控えていた卿が、音もなくハインリヒの前に立ちふさがった。その動きは素早く、無駄がなく、まるで最初からそこにいたかのように自然だった。
「ハインリヒ・フォン・シュナイダー」
バルドゥール卿の声は低く、しかし広間の喧騒の中でもはっきりと届いた。
「その瓶を置け」
ハインリヒの顔色が変わった。
「バ、バルドゥール卿……何をなさいますか。私はただ香炉の調整を——」
「その瓶の中身は、神経を侵す毒性香料だ。三年前から集めてきた証拠がある」
卿は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「ヴァルター伯爵家との取引記録、南方産毒性香料の搬入記録、そして八年前の側近暗殺事件との関連。全てここにある」
広間がざわめき始めた。
貴族たちが何事かと振り返り、音楽が止まり、国王陛下が席から身を乗り出した。
ハインリヒは青ざめ、後退しようとした。しかしその背後に、ディートリヒが静かに立っていた。逃げ場はなかった。
「離せ……離せ! 私は何もしていない! 証拠など——」
「ある」
バルドゥール卿は静かに言い、さらにもう一枚の羊皮紙を取り出した。
「マリア・ローゼンフェルトの調合記録の原本だ。お前が書き換えた記録との筆跡の差異は、専門家が見れば一目瞭然だろう」
エレノアの胸が大きく跳ねた。
母の調合記録の、原本。
バルドゥール卿はそれを持っていた。いつから。どこで。
ハインリヒの顔が歪んだ。怒りと恐怖が混じり合い、みっともないほど露骨に表情に出ている。
「マリアは……あの女は自分から調合したんだ! 私はなにも——」
「黙れ」
バルドゥール卿の声が、低く鋭く広間に響いた。
それはこれまでエレノアが聞いたことのない、感情の混じった声だった。
静かだったが、その奥に、長い年月の怒りが圧縮されているような、重い響きがあった。
広間が静まり返った。
ラインハルトが静かに前に出た。王太子としての、揺るぎない存在感が広間を支配する。
「ハインリヒ・フォン・シュナイダー。王宮香房首席調香師の職を即刻剥奪する。騎士団、身柄を確保せよ」
ガスパールとルーカスが素早く動き、ハインリヒの両腕を押さえた。
広間がざわめきの渦に包まれる中、エレノアはただ静かに立っていた。
視線はバルドゥール卿に向いていた。
卿は羊皮紙をラインハルトに手渡し、踵を返しかけた。しかしエレノアと目が合った瞬間、一瞬だけ足を止めた。
何も言わなかった。
しかしその灰色の瞳が、ほんのわずかだけ、これまでとは違う何かを映していた。
エレノアは胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えながら、静かに頭を下げた。
母の形見の香りが、広間の喧騒の中で静かに漂った。
大宴の夜は、まだ終わっていなかった。
広間の奥、南方の使者たちの席が、ざわめきの中で静かに動き始めていた。




