第45話 搬入の夜
大宴前日の夕方、広間への搬入が始まった。
王宮の大広間は普段でも広いが、大宴の準備が始まると別の空間に変貌する。天井から吊るされた無数のシャンデリア、壁に飾られた華やかなタペストリー、磨き上げられた石の床——そこに大量の蠟燭、香炉、装飾品が次々と運び込まれていく。
エレノアは香房の係として搬入の確認役を任されていた。表向きは香炉と蠟燭の配置を記録する仕事だったが、実際には一つ一つの香りを確認することが本当の目的だった。
ディートリヒが搬入の仕事に混じり、重い香炉を運びながらさりげなくエレノアの傍に香炉を置いていく。ガスパールは広間の警護として自然に立ち、エレノアが動きやすいよう人の流れを調整していた。ルーカスは搬入の記録係として広間の隅に控え、怪しい動きがあればすぐに合図を送る手筈になっていた。オスカーは南方の使者たちの宿泊棟の近くで、彼らの動きを監視していた。
四人の連携は、一見して何の変哲もない日常の仕事風景に見えた。
エレノアは香炉を一つ手に取り、慎重に鼻を近づけた。
通常の樹脂と蜂蜜の香り。問題はない。
次の香炉。ラベンダーとローズマリーの穏やかな調合。これも問題はない。
三つ目の香炉——エレノアの指が、わずかに止まった。
表面はジャスミンと白檀の上品な香りだった。しかしその奥底に、極めて微かな異臭が沈んでいた。甘く鋭い、あの感覚。「忘却の霧」に似た成分が、巧妙に香りの層の下に隠されていた。
エレノアは表情を変えず、静かに香炉を元の位置に戻した。さりげなくディートリヒの傍に近づき、小声で言った。
「三つ目の香炉、印をつけておいてください」
ディートリヒは無言で頷き、香炉の底に小さな傷をつけた。
作業を続けながら、エレノアは次々と香炉と蠟燭を確認していった。
問題のある香炉はさらに二つ見つかった。どれも表面の香りは上品で格調があり、素人が嗅いでも気づかないほど巧妙に成分が隠されていた。しかし共通点があった。いずれも広間の中央、国王と王太子が座る席に近い位置に配置されるものだった。
(狙いは……陛下と殿下だ)
蠟燭の確認に移ったとき、ルーカスが自然な動作でエレノアの傍を通り過ぎながら小声で言った。
「南方の使者の一人が、搬入の時間に合わせて香房の近くをうろついていたとオスカーから報告があった」
エレノアは頷き、手元の記録用紙に何かを書くふりをしながら考えた。
使者が香房に近づいていた。しかも搬入のタイミングで。
(香炉に細工をしたのは、使者の側の人間かもしれない。ハインリヒは手配をしただけで、実際の仕込みは別の者が)
確認を続けながら、エレノアは蠟燭の束を一つずつ手に取った。
最初の十数本は問題がなかった。しかし十七本目、エレノアの鼻が反応した。
熱を加えると刺激臭を放つ成分。以前の夜会で使われたものと同じ系統だったが、今回は濃度が段違いに高かった。広間全体に満ちれば、軽い幻覚や判断力の低下では済まない。最悪の場合、意識を失う者が出る可能性もあった。
エレノアは静かにガスパールに視線を送った。
ガスパールは自然な動作で近づき、小声で状況を聞いた。
「問題のある蠟燭が一本見つかりました。おそらく、他にも混じっています。全部確認する時間をください」
「どのくらい必要だ」
「一時間、いただければ」
ガスパールは短く頷き、広間の責任者に「蠟燭の配置を見直す必要がある」と告げ、搬入作業を一時中断させた。
その一時間で、エレノアは広間に運び込まれた蠟燭を全て確認した。
問題のある蠟燭は合計七本。そのうち五本が、先ほどと同じ国王と王太子の席の周辺に配置されるものだった。残り二本は広間の入り口付近、逃げ道を塞ぐための配置だとエレノアは判断した。
全ての問題のある蠟燭を特定し終えたとき、額には冷たい汗が滲んでいた。
ディートリヒがそっと問題の蠟燭を安全なものと入れ替え、印をつけて別に保管した。作業は自然な流れの中で行われ、周囲の使用人たちは何も気づいていなかった。
搬入が終わり、広間から人が引いていく頃、エレノアはラインハルトの執務室へと急いだ。
王太子は執務机に向かっていたが、エレノアの顔を見た瞬間に立ち上がった。
「何があった」
エレノアは静かに、しかし正確に報告した。問題のある香炉が三つ、蠟燭が七本。いずれも国王と王太子の席周辺に集中していたこと。そして南方の使者が搬入のタイミングで香房に近づいていたこと。
ラインハルトは黙って聞いていた。報告が終わると、しばらく窓の外を見ていた。夜の王宮に、月の光が石畳を青白く照らしている。
「規模が大きいな」
「はい。単なる嫌がらせではありません。陛下と殿下を同時に狙った、明確な意図が感じられます」
「大宴を中止にするか」
エレノアは少し考えてから答えた。
「中止にすれば、ハインリヒと使者たちは証拠を隠滅します。今夜特定した問題の蠟燭と香炉は保管しましたが、それだけでは背後の者まで辿り着けません」
ラインハルトは静かにエレノアを見た。
「つまり、大宴を予定通りに行い、罠ごと逆用するということか」
「はい。問題のある香炉と蠟燭は安全なものと入れ替えました。犯人たちは仕込みが成功していると思い込んで当日動くはずです。その動きを押さえれば、ハインリヒだけでなく背後の者まで一網打尽にできるのではないでしょうか」
王太子は腕を組み、しばらく考えていた。
「リスクは大きいな」
「はい。ただ——」
エレノアは静かに続けた。
「今夜、バルドゥール卿からも書状が届いていました。『明日、私も動く。信じて待て』と」
ラインハルトの表情がわずかに動いた。
「バルドゥールが動くか……」
王太子はしばらく無言で考え、やがて静かに言った。
「わかった。大宴は予定通りに行う。ただし警護の配置をさらに厚くする。お前は当日、私の傍から離れるな」
「はい、殿下」
エレノアは深く頭を下げた。
部屋を辞し、廊下を歩きながら、母の形見の香りをそっと手首に落とした。
明日の夜、全てが動く。
ハインリヒの罪、ヴァルター伯爵家との繋がり、そして母の真実。それらが一度に噴き出す夜になるかもしれない。
(怖くない、といえば嘘になる)
エレノアは立ち止まり、暗い廊下の窓から夜空を見上げた。
月が雲に隠れ、星だけが冷たく輝いている。
(でも、母様。私はもう……後には引けないのです)
廊下の角を曲がったとき、暗がりの中にバルドゥール卿の影が見えた。
卿はエレノアを一瞥し、ひどく短く言った。
「明日、お前は香りだけに集中しろ。他のことは私がやる」
「……卿は、明日何をされるのですか」
バルドゥール卿は答えなかった。しかし去り際に、ほんのわずか、声を落として言った。
「無茶はするなよ」
それだけだった。
エレノアは暗がりに消えていく卿の背中を見送り、静かに胸の中で思った。
(あの人は……不器用だけれど、確かに何かを守ろうとしているのだわ)
大宴まで、あと一夜。
王宮の石廊下に、冷たい夜風が静かに吹き抜けていった。




