第44話 前夜の香り
大宴まで、あと二日。
王宮全体が慌ただしい熱気に包まれていた。使用人たちは広間の装飾を整え、厨房からは料理の香りが漂い、騎士団は警護の配置確認に追われている。その喧騒の中で、香房だけは異様なほど静かだった。
ハインリヒが全員に口止めをしていたのだ。
「大宴の調合は最高機密だ。内容を外に漏らした者は即刻追放する」
その言葉に、香房の調香師たちは黙って頷いた。誰も余計なことを言わない。そして余計なことを聞かない。長年ハインリヒの下で働いてきた者たちの、染み付いた習慣だった。
そんな中エレノアは作業台で与えられた調合をこなしながらも、横目でハインリヒの動きを追っていた。
首席は今日、普段より頻繁に作業室と香房を往復していた。運び込まれる香料の量も明らかに多い。南方産の素材が、いつもより多く搬入されているのをエレノアは見逃さなかった。
(やはり、大宴を使う気なのだ)
昼過ぎ、ディートリヒから短い書状が届いた。
『搬入の手伝いに入れた。明日の夕方、広間への搬入が始まる。段取りは整えている』
エレノアは書状を読み、静かに燃やした。
その日の夕方、エレノアはラインハルトの私室で香油の調整をしていた。王太子は執務机に向かい、書類を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「大宴の警護配置を変えた。騎士団の若手を広間の内側に増やしている」
「ガスパールたちも、ですか」
「そうだ。……お前が頼んだのだろう」
エレノアは手を止めずに答えた。
「皆さんが自ら動いてくださいました。私からは特別何も」
ラインハルトは短く鼻を鳴らした。否定も肯定もしない、いつもの反応だった。しかし次の言葉は、少し違った。
「あの四人は……お前をよく守っているな」
「はい。いつも助けていただいています」
「騎士としての本分を果たしているだけだろうが……悪くない」
王太子にしては珍しい、遠回しな称賛だった。エレノアは頰がわずかに緩むのを感じながら、香油の瓶に視線を戻した。
夜が深まった頃、エレノアはリリアとソフィーと香房の裏で短い時間を持った。
「エレノア、顔が怖いよ」
リリアが心配そうに言う。
「そう見える?」
「いつもより考え込んでる顔してる。……大宴、何かあるの?」
エレノアは少し迷ってから、正直に答えた。
「大宴の当日、気をつけてほしいことがあって。二人は広間には近づかないでほしいの」
リリアとソフィーは顔を見合わせた。
「……どのくらい、やばいの?」
「それはわからないの。でも、念のために」
ソフィーが小さな声で言った。
「エレノアさんは……大丈夫なんですか」
エレノアは静かに微笑んだ。
「私は殿下の側で香りを嗅ぐだけだから。大丈夫よ」
二人は納得していない顔だったが、それ以上は聞かなかった。リリアだけが、帰り際にエレノアの手をそっと握った。言葉はなかったが、それで十分だった。
その深夜、エレノアは一人で香房の作業台に残っていた。
明日の搬入に備えて、自分の鼻を最良の状態に保つための準備をしていた。強い香りは避け、鼻を休ませる。母から教わった、調香師としての基本であった。
棚から母のノートを取り出し、静かにページをめくる。
調合の記録、香料の産地、蒸留の温度と時間。母の几帳面な筆跡が、蝋燭の灯りに照らされている。
ページの端に、小さな走り書きを見つけた。今まで気づかなかったほどに掠れている、ほんの数行の文字だった。
『この香りは、誰かを守るために作った。決して、傷つけるためではない。もし私が間違いを犯したとするなら、それは守りたかったからだ』
日付も何もない。しかし筆跡は、記録の中で最も新しいものに見えた。
エレノアはしばらく、その文字を見つめていた。
(母様……あなたは、誰を守ろうとしていたの)
蝋燭の炎が小さく揺れた。
答えは出なかった。しかし、胸の奥で何かが静かに温かくなった。母は悪意で調合をしたのではない。それだけは、確かだと思えた。
ノートを閉じ、母の形見の香りを手首に落とした。
その時、香房の扉の外で微かな足音がした。
エレノアは蝋燭を素早く覆い、暗闇の中で息を潜めた。
足音は香房の前で止まった。扉が、ほんのわずかに軋む音がする。
誰かが、中を確認しようとしている。
エレノアは動かなかった。心臓の音が、静寂の中で大きく響くように感じた。
やがて足音は遠ざかり、廊下の奥へと消えていった。
エレノアはゆっくりと蝋燭の覆いを外した。震える炎が、薄暗い香房を照らし直す。
鼻を澄ませると、扉の隙間からわずかな残り香が漂ってきた。
重厚なムスクと、腐敗した油の香り。
ハインリヒだった。
(首席が……深夜に香房の前を)
エレノアは静かに立ち上がり、母のノートを懐にしまった。明日の搬入まで、あと半日もない。
ハインリヒは確実に動いている。そして自分が何かを知っているかもしれないと、疑い始めている。
エレノアは香房を出て、暗い廊下を静かに歩いた。
王太子の執務室の前まで来ると、扉の下から微かな灯りが漏れていた。まだ起きている。
軽く扉を叩くと、すぐに「入れ」という低い声が返ってきた。
「こんな時間に何だ」
ラインハルトは書類から目を上げ、エレノアの顔を見て眉をわずかに寄せた。
「申し訳ありません。ただ……先ほど、深夜の香房の前にハインリヒ首席がいました」
王太子の表情が静かに引き締まった。
「お前に気づいたのか」
「おそらく、気づかれてはいないと思います」
ラインハルトはしばらく無言で考えていた。やがて静かに言った。
「明日の搬入が鬼門だな、目を離すな」
「はい」
「それと——」
王太子は一瞬、言葉を止めた。
「深夜に一人で動くな。何かあれば、すぐに人を呼べ」
エレノアは深く頭を下げた。
部屋を辞し、廊下を歩きながら、今しがた王太子が見せたわずかな間を思い返した。
命令ではなかった。それは心配だった。
(殿下も……眠れていないのね)
母の形見の香りが、夜の冷たい空気の中で静かに漂った。
大宴まで、あと一日。
王宮の夜は、深く静かに更けていった。




