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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

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第58話 最後の夜に

 王宮での最後の夜が来た。


 エレノアは自分に与えられた小さな部屋で、残りの荷物を丁寧にまとめていた。蝋燭の灯りの下で、一つ一つのものを手に取り、確認しながら包んでいく。


 母のノート。調合の道具。記録の写し。そして——ラインハルトから受け取った小さな銀の護符。


 護符を手のひらに乗せ、しばらく見つめた。


 翼を広げた鷹と、細い剣。細かな彫刻が、蝋燭の灯りに静かに輝いている。


(これを……持っていく)


 エレノアは護符を革紐ごと首にかけ、服の中にそっとしまった。肌に触れる銀の冷たさが、じわりと温かくなっていく。


 荷物をまとめ終えると、部屋の中を見回した。


 一年間過ごした、小さな石造りの部屋。簡素なベッドと小さな棚、作業台代わりに使っていた古い机。何もない部屋だったが、ここで何度も母のノートを読み、何度も香りを調合し、何度も眠らない夜を過ごした。


(ここで……色々なことがあった)


 蝋燭の炎が小さく揺れた。


 その時、扉を軽くノックする音がした。


 開けると、リリアとソフィーが立っていた。二人とも少し目が赤い。リリアは小さな包みを抱えていた。


「最後の夜だから……一緒にいてもいいかな」


 エレノアは静かに扉を開けた。


「もちろん」


 三人は部屋の中で、床に並んで座った。リリアが持ってきた包みを開けると、小さなお菓子と温かいハーブティーが入っていた。


「香房の残りのカモミールで作ったの。最後だから」


「ありがとう」


 三人はしばらく、お菓子を食べながらハーブティーを飲んだ。


 最初は誰も何も言わなかった。蝋燭の灯りが三人の顔を柔らかく照らし、カモミールの穏やかな香りが部屋に満ちていた。


 やがてリリアが、ぽつりと言った。


「エレノアが来た時のこと、覚えてる?」


「覚えているわ。リリアがいきなり飛び込んできて、声が大きいって怒ったでしょう」


「そうそう! エレノア、最初はすごく怖かったよね。表情も堅かったし」


「怖かったの?」


「怖かった! でもそれもすぐに柔らかくなったけどね」


 ソフィーが静かに微笑んだ。


「私が初めてエレノアさんと話した時、香料の名前を一つ一つ丁寧に教えてくださって。忙しいのに、嫌な顔一つしなかった」


「そんなことがあったかしら」


「ありました。ずっと覚えています」


 エレノアは二人の顔を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「二人には……本当に助けてもらいました」


「こっちこそ」


 リリアが膝を抱えながら言った。


「エレノアがいたから、王宮の仕事がこんなに面白かったと思う。香りって、こんなに色々なことを語るんだって、エレノアに教えてもらった」


「私も」


 ソフィーが静かに続けた。


「エレノアさんを見ていて……目立たなくても、ちゃんと誰かの役に立てるって分かりました。私もそういう風に働きたいと思えるようになりました」


 エレノアは二人を見つめ、少し笑った。


「私は……目立ちたくなかったのに、散々目立ってしまいましたけど」


「それもエレノアらしいんだよ」


 リリアが笑い、ソフィーも笑った。エレノアもつられて笑った。


 笑いながら、誰かが鼻をすすった。誰かは分からなかった。たぶん、三人とも少し泣いていた。


「南区の工房、必ず行くから」


 リリアが言った。


「私も」


 ソフィーが続けた。


「最初のお客様になってくれますか?」


「約束する」


 リリアが力強く頷き、ソフィーも静かに頷いた。


 三人はそのまま、夜が深まるまで話し続けた。


 他愛のない話だった。香房での失敗談、貴婦人たちの面白いエピソード、リリアの恋愛話、ソフィーの故郷の話。笑ったり、少し泣いたり、またお菓子を食べたり。


 それが終わる頃、蝋燭が短くなっていた。


「そろそろ行くね」


 リリアが立ち上がり、エレノアを強く抱きしめた。


「元気でね。工房、うまくいくよ。絶対」


「ありがとう、リリア」


 ソフィーも静かに抱きしめてきた。


「お体に気をつけてください、エレノアさん」


「ソフィーも。二人とも、王宮での仕事、頑張って」


 二人が部屋を出ると、静寂が戻った。


 エレノアは蝋燭の前に座り、しばらく炎を見つめていた。


(あとは……朝を待つだけだ)


 しかし眠れそうにはなかった。


 しばらくして、エレノアは部屋を出た。


 眠れないなら、最後に王宮の夜を歩こうと思った。


 廊下に出ると、夜の空気が冷たく肌に触れた。夏の夜でも、石造りの王宮の廊下は冷えている。



 エレノアはゆっくりと歩いた。


 香房の前を通った。薄暗い作業室の中に、蒸留器と棚と作業台が静かに並んでいる。最初にここに立った時のことを思い出した。ハインリヒに見下ろされ、イザベラ公妃の香水の毒に気づいた、あの朝のことを。


 書庫の前を通った。ルーカスと並んで古い写本を読んだ場所だ。


 薔薇園の前を通った。夜の薔薇は暗がりの中で静かに揺れている。ラインハルトと並んで夕暮れの中に座った日のことを思い出した。


 騎士団の厩舎の前を通った。ガスパールたちと何度も密談を重ねた場所だ。


 礼拝堂の前を通った。バルドゥール卿と初めて母の話をした、橙色の光の差し込む場所だ。


 王宮の廊下をひとめぐりして、最後にエレノアは足を止めた。


 王太子の執務室の前だった。


 扉の下から、細い灯りが漏れていた。


(まだ、起きている)


 エレノアはしばらく、その灯りを見つめていた。


 扉を叩こうとは思わなかった。何かを言おうとも思わなかった。


 ただ、その灯りを見ていた。


 あの灯りの下で、ラインハルトは今何をしているのだろう。書類を読んでいるのか。それとも、ただ眠れないままでいるのか。


(昨日置いてきた香油を……使ってくれているといいけれど)


 エレノアは胸の中の護符をそっと押さえた。


 服の上から、銀の硬い感触が伝わってくる。


(これだけで……十分)


 エレノアは静かに踵を返した。


 廊下を歩きながら、母の形見の香りを手首に落とした。


 夜の王宮に、甘く控えめな香りが静かに広がった。


 部屋に戻り、エレノアはベッドに横になった。


 眠れないと思っていたが、カモミールの香りが残る部屋の空気に包まれて、いつの間にか目が閉じていた。


 夢を見た。


 母の工房だった。幼い頃のエレノアが、母の傍で香料瓶を並べている。母は静かに笑いながら、蒸留器の火加減を調整していた。


『エレノア、香りはね、正直なの』


 母の声が、夢の中で静かに響いた。


『どんなに隠しても、香りだけは本当のことを語る。だから……自分の香りに、嘘をつかないようにしなさい』


 エレノアは夢の中で、母の手を握った。


 温かかった。


 夜明けの光が窓から差し込んできた時、エレノアはゆっくりと目を開けた。


 新しい朝だった。


 王宮での、最後の朝だった。


 エレノアは静かに起き上がり、窓の外を見た。


 夏の朝の空が、青く広がっている。王宮の庭園に朝露が光り、薔薇の花びらが風に揺れていた。


 エレノアは深く息を吸った。


 石の冷たい香り、朝露の清々しさ、遠くに漂う薔薇の残り香。


 この王宮の朝の香りを、最後にもう一度だけ、深く胸に刻み込んだ。


(覚えておこう。全部)


 エレノアは荷物を持ち、部屋を出た。


 廊下を歩きながら、一度だけ振り返った。


 小さな石造りの部屋。何もない、簡素な部屋。


 しかしここで、エレノアは多くのものを受け取った。


(ありがとう)


 心の中で静かに言い、踵を返した。


 王宮の正門に向かう廊下に、朝の光が差し込んでいた。


 正門の前に、人影があった。


 ガスパール、ルーカス、ディートリヒ、オスカーの四人が、騎士の正装で立っていた。


 エレノアは足を止める。


「皆さん……こんな朝早くに」


「見送りくらいさせてくれよ」


 ガスパールが笑顔で言った。


 四人は整列したまま、エレノアに向かって静かに頭を下げた。


 騎士が市井の侍女に頭を下げる。本来ならあり得ないことだった。しかし四人は迷わずそうした。


 エレノアは胸が詰まった。


「……ありがとうございます、皆さん」


「工房、うまくやれよ」


 顔を上げたディートリヒが照れくさそうに言った。


「怪我した時は頼むな」


 オスカーが笑いながら言った。


「達者でな」


 ルーカスが静かに言った。


 ガスパールは何も言わなかった。ただ、最後に静かに微笑んだ。


 エレノアは四人に深く頭を下げ、正門をくぐった。


 王都の朝の空気が、肌に触れた。


 石畳の道が、王都の南区へと続いている。


 エレノアは歩き始めた。


 振り返らなかった。


 振り返れば、戻りたくなると分かっていたから。


 ただ、前を向いて、一歩ずつ歩いた。


 胸の中の護符が、歩くたびに静かに揺れた。


(行く。自分の場所へ)


 王都の朝の光の中で、エレノア・ローゼンフェルトは静かに歩き続けた。

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