第4話 公妃の呼び出し
白薔薇事件から三日後、エレノアは思いがけない呼び出しを受けた。
使いの侍女が香房に現れ、「イザベラ公妃殿下がお呼びです」とだけ告げて去っていった。香房にいた調香師たちの視線が、一斉にエレノアに集まった。ハインリヒは何も言わなかったが、その目が「余計なことをするな」と語っていた。
エレノアは静かに作業台を片付け、廊下へ出た。
イザベラ公妃の私室は、王宮の内廷の奥にあった。
扉が開いた瞬間、濃厚な香りが押し寄せてきた。ローズとムスクを基調にした、重く甘い調合。部屋全体に染み込むほど強く焚かれており、初めてここに入る者は思わず息を詰めるほどだった。しかしエレノアは表情を変えず、静かに一歩踏み込んだ。
豪奢な天蓋付きのベッド、黄金の装飾、壁を覆う高価なタペストリー。調度品の一つ一つが、この部屋の主の地位と権力を語っていた。
イザベラ公妃は窓辺の椅子に腰かけ、銀の杯を片手に持っていた。二十八歳、絹のドレスをまとった優美な美女だった。しかしその瞳の奥に、柔らかさはない。切れ味を隠した刃のような、冷たく鋭い光が宿っていた。
「あなたが例の鼻の良い侍女ね。エレノア、とか言ったかしら」
「はい、公妃殿下」
エレノアは深く頭を下げた。
「単刀直入に言うわ」
公妃は杯をゆっくりと傾け、エレノアを上から下まで眺めた。
「私のライバルであるソフィア妃の最近の香りを、調べてほしいの」
「……ソフィア妃殿下の、香りを」
「そう。最近使う香りが変わったらしいのよ。以前は清楚で控えめな調合だったのに、今は……まるで男を惑わすような、淫靡で甘ったるい香りになっている。誰が調合したのか、どんな成分が使われているのか、全て教えて」
エレノアは頭を下げたまま、心の中で素早く考えた。
(利用する気満々ね)
香りを調べるだけなら、確かにエレノアにできることだ。しかしその結果が、公妃とソフィア妃の間の政治的な争いに使われることは明らかだった。一歩間違えれば、エレノア自身がその争いの道具になる。
「畏まりました」
エレノアは静かに答えた。
「ただし、私の能力は『嗅ぐ』ことのみです。香りの成分をお伝えすることはできますが、それをどう解釈されるかは私の関知するところではございません。政治的な判断は、いたしかねます」
公妃の唇が、わずかに吊り上がった。
「生意気な子。……いいわ、その程度で十分よ」
公妃は杯を置き、立ち上がった。絹のドレスが床を滑るように流れ、窓の光に輝く。
「明日の午後、ソフィア妃の庭園茶会があるわ。あなたも香房の係として自然に近づきなさい。茶会の香炉の確認、という名目で入れるよう手配しておくから」
「畏まりました」
「それと——」
公妃はエレノアをまっすぐに見た。
「この件は、香房の誰にも話さないこと。ハインリヒにもよ」
エレノアは深く頭を下げ、私室を辞した。
廊下に出て、扉が閉まった瞬間、エレノアは静かに息を吐いた。
退出する際に、公妃の袖から漂う香りをしっかりと記憶していた。表面の華やかなローズとムスクの下に、わずかに焦げたような、乾いた残り香があった。長く強い緊張が続く者の体から滲み出る、野心と焦りの香りだった。
(公妃は……焦っているのね)
ソフィア妃の香りが変わったことが、それほど公妃にとって脅威なのだろう。単なる好奇心ではない。何かを確かめなければならない、切迫した理由があるはずだった。
その夜、エレノアはリリアと香房の裏の小さな廊下で、小声で話した。
「ソフィア妃について、何か知っていることはある?」
「ソフィア妃? 最近、北方の辺境伯と親しくなってるって噂があるわよ。公妃派としては面白くないはずよね。王の寵愛が、公妃からソフィア妃に傾いてるって話も聞いたし」
「なるほど」
「でも、エレノア……どうしてソフィア妃のことを?」
エレノアは少し迷ってから、公妃からの依頼の輪郭だけを簡単に話した。リリアは眉を寄せた。
「気をつけてね。公妃派に取り込まれたら、ソフィア妃派からは敵に見られるから」
「分かっているわ。私は香りを嗅ぐだけよ。どちらの派閥にもつくつもりはない」
「言うは易しよ」
リリアは心配そうに言ったが、それ以上は追及しなかった。
二人は短く別れ、エレノアは自分の部屋へ戻った。
作業台の前に座り、母の形見の香水瓶を手に取った。蓋を開けると、ダマスクローズの甘さとサンダルウッドの深みが静かに漂った。
手首に一滴落とし、目を閉じた。
甘く、穏やかで、芯の強い香り。
どちらの派閥にも属さない。ただ香りを嗅ぎ、真実だけを追う。それがエレノアの決めた一線だった。
しかしこの王宮で、その一線を守り続けることがどれほど難しいか——公妃の鋭い瞳を思い返しながら、エレノアは静かに考えた。




