第3話 白い薔薇の幻
翌朝、香房はいつもよりざわついていた。
「また庭園で……白い薔薇の花壇の近くで、クララ様が倒れたそうですわ」
リリアが小声でエレノアに耳打ちした。彼女の金髪が朝の光に輝いている。
エレノアは蒸留器の火を弱めながら、静かに鼻を動かした。香房の窓から微かに漂ってくる風に、甘く濃厚な薔薇の香りが混じっていた。
(……ただの薔薇ではない)
「現場を見に行ってもいいかしら?」
「えっ、でも新入りが勝手に出歩いたら……」
「首席には『在庫確認のため庭の花を調べる』と言っておいて」
エレノアは淡々と答え、灰色のスカートを翻して香房を出た。
王宮の庭園は美しかった。石畳の小道の両側に整えられたバラの花壇。特に「白雪の薔薇」と呼ばれる純白の品種が、朝露をまとって輝いている。
倒れた貴婦人・クララはすでに運び出された後だったが、土と花弁に残る香りがまだ濃く残っていた。
エレノアはしゃがみ込み、指で土を少しすくい上げて鼻に近づけた。
上品で清純な白薔薇の香り。
しかし、その奥に……甘くねっとりとした、**ジャスミンに似たが、より重く人工的な香り**が絡みついている。
「この香油……蒸留の過程で特殊な溶剤を使ったわね。しかも……」
彼女はさらに深く嗅いだ。
微かな、頭の奥を痺れさせるような刺激臭。
(幻覚誘発成分。ラベンダーとベルガモットを基調に、禁じられたキノコ由来の抽出物を混ぜたもの)
エレノアは立ち上がり、周囲を見回した。花壇の端に小さなガラス片が落ちているのを見つけた。香油瓶の破片だ。
その日の午後、香房に戻った彼女はハインリヒ首席に報告した。
「庭園の白薔薇に、意図的に幻覚を誘う香油が塗布されていました。犯人はおそらく、クララ様に嫉妬する侍女の一人かと」
ハインリヒは太い眉を寄せたが、すぐに鼻で笑った。
「証拠はあるのか? ただの勘で物を言うな」
「破片から香油を再現できます。分析をお見せしましょうか?」
その夜、首席の前でエレノアは簡易蒸留器を使い、現場の土から抽出した成分を再現してみせた。
甘く危険な香りが作業室に広がると、ハインリヒの顔色が変わった。
翌日、犯人の侍女が自白した。クララに恋する騎士の気を引きたくて、弱い幻覚香油を使ったという。
事件は小さく収まったが、王宮内に「新入りの鼻が異常に鋭い」という噂が広がり始めた。
エレノアは工房の隅で、静かに息をついた。




