第2話 幼馴染みと香房の影
香房の奥にある小さな作業室で、エレノアは蒸留器の火加減を慎重に調整していた。
ローズウォーターを抽出するための蒸留作業だった。火が強すぎれば香りが飛び、弱すぎれば成分が十分に抽出されない。炎の揺れを見ながら、エレノアは静かに呼吸を整えた。この作業は好きだった。蒸留器の前に座っている間だけは、余計なことを考えなくていい。香りと、熱と、時間だけがある。
「エレノア! 本当にここにいたのね!」
明るい声とともに、作業室の扉が勢いよく開いた。
驚いて振り返ると、金髪の可愛らしい少女が飛び込んできた。息を切らし、頬を上気させながら、こちらに向かって走ってくる。
「リリア……! 声が大きいわ」
エレノアは思わず立ち上がり、廊下に誰かいないかを素早く確認した。幸い、人の気配はなかった。
「ごめんごめん。でもびっくりしたんだもの! 男爵家が大変だって聞いてたのに、まさか王宮に来てるなんて……!」
リリアは幼馴染みだった。エレノアが物心ついた頃からの付き合いで、今は王宮の下級メイドとして働いているという話は聞いていた。まさかこんな形で再会するとは思っていなかった。
二人は人目がないのを確認してから、久しぶりに抱き合った。リリアの体から、石鹸と洗濯物の清潔な香りがした。懐かしかった。
エレノアは簡単に事情を説明した。家の借金のこと、試験に合格して、こうして王宮香房の下級調香師兼侍女として採用されたこと。リリアは目を輝かせながら、時折「すごい」「信じられない」と小声で相槌を打ちながら聞いていた。
「気をつけてね」
一通り聞き終えると、リリアは急に真剣な顔になって耳打ちした。
「ここ、派閥がすごいの。ハインリヒ首席はイザベラ公妃派よ。公妃に気に入られることが、この香房で生き残る条件みたいになってるから。逆らったり、目立ちすぎたりすると……すぐに追い出されるって話も聞いたわ」
エレノアは静かに頷いた。
昨日のハインリヒの態度を思い返す。没落男爵家の娘が、という言葉の奥に、はっきりとした侮りがあった。同時に、エレノアの仕事を見た後のあの目——値踏みするような、利用価値を測るような視線。
(使えると思われれば残れる。しかし出すぎれば潰される)
「ありがとう、リリア。気をつけるわ」
「私も、できる範囲で情報を集めておくね。何かあったらすぐに教える」
リリアは明るく笑い、「仕事に戻らないと」と言って作業室を出て行った。その足音が廊下の向こうへ遠ざかってから、エレノアは蒸留器に視線を戻した。
その日の午後、エレノアは香房の在庫整理を命じられた。
棚に並んだ数百の香料瓶を一つ一つ手に取り、ラベルと内容を照合しながら記録していく。単純な作業に見えるが、エレノアにとっては違った。一本一本の瓶の蓋を開け、香りを確認しながら、その成分と産地と用途を頭の中に刻み込んでいく。
ジャスミン、サンダルウッド、パチュリ、ベンゾイン。ラベンダー、イランイラン、シベット、アンバー。
この世界で「香り」は武器であり、鍵であり、時には毒にもなる。どの香りがどこにあるかを把握しておくことは、この香房で働き続けるための最低条件だった。そしてそれ以上に——何か異変が起きた時、すぐに気づくための準備でもあった。
夕方、庭園から戻ってきた侍女たちが香房の入り口付近でひそひそと噂をしていた。
「白い薔薇の花壇で、誰かが倒れたって……」
「まあ、大変。何があったのかしら」
侍女たちは声を潜めて言葉を交わし、やがて廊下の奥へ消えていった。
エレノアはゆっくりと立ち上がり、香房の窓に近づいた。
夕暮れの風が、外から静かに流れ込んでくる。
鼻を澄ませた。
薔薇の甘い香り。夕方の湿った土の匂い。そして——その奥に、ごくわずかに、甘くねっとりとした、花に似ているが花ではない、どこか人工的な香りの残り香が混じっていた。
(……これは、ただの事故ではない)
エレノアは静かに目を細めた。
明日の朝、庭園に行く理由を作らなければならない。




