第1話 王宮の香房
王宮の奥深く、香房と呼ばれる一画は、常に甘く複雑な香りに満ちていた。
花弁、樹脂、香辛料、動物の麝香——数百種類の香料が棚に並び、蒸留器やガラス瓶が日光を浴びて輝いている。ここは表向き「王妃と貴婦人たちの美を支える場所」だったが、同時に陰謀と毒の匂いが常に漂う危険地帯でもあった。
エレノアは地味な灰色の侍女服に身を包み、背筋を伸ばして立っていた。
「新入りか。名前は?」
首席調香師ハインリヒ・フォン・シュナイダー(五十六歳)は、太った体を揺らして彼女を見下ろした。彼の体からは重厚で甘ったるいムスクと、わずかな腐敗したような油の匂いがした。権力に溺れた者の香りだ。
「エレノアと申します。よろしくお願いいたします」
「ふん。没落男爵家の娘が、よくここまで辿り着いたものだ。……まあいい。今日はイザベラ公妃殿下の愛用香水の調整だ。失敗すれば即刻首だぞ」
差し出されたのは美しいクリスタルの瓶。
エレノアが蓋を開けた瞬間、眉がわずかに動いた。
表層は優雅なローズとジャスミンの調和。公妃の地位に相応しい華やかな香り。
しかし、その奥底——極めて微かに、**苦いアーモンドの残り香**が沈んでいた。
(……青酸系の毒。ゆっくりと効くタイプ……)
彼女は表情を変えずに鼻を近づけ、慎重に嗅いだ。
間違いない。誰かが意図的に混入したものだ。量は微量だが、数日使えば体調を崩し、最悪の場合——
「どうした? 早く調整を始めろ」
「はい。少々、成分を調整させていただきます」
エレノアは与えられた作業台で、素早く中和用の香料を加えた。表面の香りを崩さず、毒の効果を弱める微調整。彼女の指の動きは迷いがなかった。
その夜、イザベラ公妃の寝室で香水が焚かれた。
ほどなくして、公妃付きの侍女の一人が突然苦しみ始め、倒れた。
翌朝。
エレノアは王太子の執務室に呼び出されていた。
冷たい銀灰色の瞳、黒髪を後ろで束ねた長身の男——ラインハルト・フォン・ローエングラム王太子(26)が、彼女をじっと見下ろしていた。彼の周囲には、冷たい石鹸と鋼の匂いがした。
「貴女が毒を嗅ぎ分けたという侍女か?」
「はい、殿下」
エレノアは深く頭を下げ、静かに続けた。
「香りは、決して嘘をつきません。
公妃殿下の香水に、毒が混入されておりました。微量でしたが……もしそのままお使いになっていれば、数日以内に体調を崩されていたでしょう」
ラインハルトの瞳がわずかに細められた。
「証拠は?」
「残った香水をお調べいただければわかります。私はただ、匂いを嗅いだだけです」
沈黙が落ちた。
王太子はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に近づいた。背が高く、威圧感がある。戦場で多くの敵を討った英雄の、冷たい視線。
「面白い。
……当分、ここに留まれ。もう少し、貴女を試させてもらう」
エレノアは胸の内で小さく息を吐いた。
(目立ってしまっている……できるだけ、控えめに振る舞わなくては)
(続く)




