プロローグ 没落の香り
冷たい雨が、ローゼンフェルト男爵邸の古い石壁を叩いていた。
薄暗い香料工房の中で、エレノア・ローゼンフェルトは最後の香水瓶を静かに磨いていた。十九歳の彼女の指は、細く白く、しかし力強かった。母から受け継いだこの工房は、今や家に残された最後の誇りだった。
瓶の中で揺れる淡い黄金色の液体——それは母の形見の香りだった。
上品なダマスクローズに、サンダルウッドの深み、そしてほんのわずかに苦いアーモンドの残り香を忍ばせた調合。母が最後に完成させた、決して表に出さなかった「影の香り」。
「これで……本当に終わりなのですね」
エレノアは呟いた。父の借金はすでに百五十万リヒトを超えていた。政敵であるヴォルフ公爵家の策略により、交易ルートはことごとく断たれ、領地の収入も激減した。母が亡くなって三年。守るべきものは、もうほとんど残っていなかった。
その時、工房の扉をノックする音がした。
使用人の老人が、濡れた手紙を差し出す。
封蝋には王宮の紋章が押されていた。
『王宮香房 下級調香師兼侍女 採用試験合格通知』
条件は苛烈だった。身分を伏せ、身元保証は一切なし。失敗すれば即時追放され、二度と王宮に関わることができない。成功報酬は、家族の借金を肩代わりするに十分な金額だった。
エレノアは手首に、形見の香りを一滴落とした。
甘く、優しく、しかし芯の強い香りが、雨の匂いの中で静かに広がった。
「……私は、目立たないように生きる。
必要以上に注目を浴びることなく、ただ真実だけを嗅ぎ出せればそれでいい」
エレノアは決意を胸に、雨の王都へと馬車を走らせた。




