第42話 主席の作業室
バルドゥール卿から話を聞いた翌日、エレノアはラインハルトに全てを報告した。
王太子は黙って聞き、しばらく窓の外を見ていた。
「ヴァルター伯爵家か……動かすには慎重に証拠を積み上げる必要がある。今状況では表立って動けない」
「はい。ただ、ハインリヒ首席の作業室に踏み込む機会があれば、直接証拠が掴めるかもしれません」
「機会を作るのは難しくない。問題はお前が一人で中に入れるかどうかだ」
エレノアは静かに答えた。
「理由さえあれば入れます。香房の在庫確認という名目であれば、首席の作業室も対象に含まれるはずです」
ラインハルトは少し考えてから言った。
「ならば明後日、私がハインリヒを執務室に呼びつける。その間に動け。時間は長くは取れない」
「十分です」
二日後の午後、ラインハルトからハインリヒへの呼び出しがかかった。
エレノアはリリアに頼み、廊下の見張りを任せた。ガスパールには香房の入り口付近で自然に立っていてもらうよう伝えた。
首席の作業室の扉を開けた瞬間、重厚なムスクと腐敗した油の香りが押し寄せてきた。いつもより濃い。閉め切られた部屋に長年染み付いた、逃げ場のない香りだった。
エレノアは素早く室内を見回した。
棚には無数の香料瓶が並んでいる。作業台には調合の途中らしい道具が残されていた。エレノアは一本一本の瓶を手に取り、素早く香りを確認していった。
ほとんどは通常の香料だった。しかし棚の奥、他の瓶より小さな黒い瓶が三本、まるで隠すように押し込まれていた。
エレノアは一本目の蓋を慎重に開けた。
甘く鋭い、あの異臭。「忘却の霧」の第三調合に極めて近い香りが、静かに広がった。
二本目。南方産白樹脂の、神経を侵す調合。
三本目——エレノアは鼻を近づけた瞬間、思わず息を止めた。
これは知っている香りだった。
ダマスクローズを基調に、サンダルウッドの深み、そしてほんのわずかに苦いアーモンドの残り香。
母の形見の「影の香り」と、ほぼ同じ調合である。しかし、違う点が一つだけあった。
アーモンドの残り香が、母のものより遥かに濃かった。青酸系の毒を、意図的に強めた調合だった。
エレノアは瓶を元の位置に戻し、震える手を静かに押さえた。
(母の調合を……改変している)
廊下からリリアの咳払いが聞こえた。合図だった。
エレノアは素早く作業台の引き出しを確認した。羊皮紙の束、調合の記録——その中に、見覚えのある筆跡が混じっていた。
母の字だった。
しかし内容を読む時間はなかった。エレノアはその一枚だけを素早く懐にしまい、作業室を出た。
廊下に出ると、リリアが青い顔で小声で言った。
「早く、首席が戻ってくる」
エレノアは自然な足取りで香房の作業台に戻り、在庫確認の書類を広げた。数分後、ハインリヒが廊下を歩いてくる重い足音が聞こえた。
彼はエレノアをちらりと見たが、何も言わずに作業室へ消えた。エレノアは書類に視線を落としたまま、静かに息を整えた。
その夜、王太子の執務室で三つの黒い瓶の内容と、懐から取り出した羊皮紙をラインハルトに報告した。
王太子は羊皮紙を手に取り、母の筆跡を静かに眺めた。
「これは……調合の記録か」
「はい。ただ、母が書いたにしては……内容がおかしいのです」
エレノアは静かに続けた。
「母の調合の記録なのに、最後の一行だけ筆跡が微妙に異なります。まるで、誰かが書き足したように」
ラインハルトの瞳が細くなった。
「書き換えられた、ということか」
「おそらく……母に罪を着せるために」
重い沈黙が落ちた。
王太子は羊皮紙を慎重に折りたたみ、上着の内側にしまった。そしてエレノアをまっすぐに見た。
「よく持ち出した。……これは重要な証拠になる」
エレノアは深く頭を下げた。部屋を辞し、廊下を歩きながら、母の形見の香りをそっと手首に落とした。
(母様……あなたは嵌められたのですね。
そして、その記録が今もハインリヒの手元にあった)
夜の王宮に、冷たい石の匂いが静かに漂っていた。
廊下の角を曲がったとき、暗がりの中にバルドゥール卿の影が見えた。
卿はエレノアを一瞥し、ひどく短く言った。
「見つかったか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。卿は踵を返し、暗がりの中に消えていった。
しかしその背中は、いつもより少しだけ、何か重いものを下ろしたように見えた。




