第41話 灰色の男の選択
翌朝、バルドゥール卿から書状が届いた。
今回は場所も時間も記されていなかった。ただ一行だけ。
『ヴァルター伯爵家について、知っていることを話せ』
エレノアは書状を読み、しばらく考えた後、同じく一行だけ返した。
『私からも、聞きたいことがあります』
返事は昼前に届いた。
『香房裏、三つ目の柱』
昼の休憩時間、エレノアは自然な足取りで香房裏の薬草庭園へ向かった。三つ目の柱の陰にバルドゥール卿はすでにいた。いつもの濃紺の上着、無表情な横顔。庭園の春の光の中でも、この男だけは季節感がなかった。
エレノアが近づくと、卿は前置きなく言った。
「昨夜、北の渡り廊下に行ったな」
「……はい」
「見たものは」
「ヴァルター伯爵家の紋章を持つ男が、ハインリヒ首席と会っていました。その男からは南方産の香料と同じ系統の、金属的な香りがしました」
バルドゥール卿は無言だった。しばらく薬草の茂みに視線を落としていたが、やがて短く言った。
「ヴァルター伯爵家は三年前から隣国と密かに取引をしている。表向きは香料の交易だが、実際は情報と毒の売買だ」
「毒の……売買」
「香房はその隠れ蓑として使われてきた。ハインリヒはその窓口だ」
エレノアは静かに息を吐いた。頭の中で、これまでの断片が一本の線に繋がっていく。密書の香料、夜会の蠟燭、王妃の茶会、そして母の「忘却の霧」。
「母も……その取引に巻き込まれたのですか」
卿は答えなかった。
それでもエレノアは構わず続けた。
「卿は三年前からそれを知っていたのですか」
「……もっと前から疑っていた」
「では、なぜ今まで動かなかったのですか」
バルドゥール卿はエレノアをちらりと見た。感情のない瞳だったが、その奥にわずかな何かが走った。
「証拠がなかった」
「それだけですか」
間があった。
「……動けば、余計な者が傷つく可能性があった」
余計な者。その言葉が誰を指しているのか、エレノアにはわからなかった。しかし問い返す前に、卿は話を続けた。
「お前が王宮に来たことで、状況が変わった。お前の鼻は、私が三年かけて集めた証拠より雄弁だ」
「だから私に依頼を」
「そうだ」
素っ気ない返答だった。しかしエレノアは、その言葉の裏にある長い年月を、なんとなく感じ取った。
「一つだけ聞かせてください」
エレノアは卿をまっすぐに見た。
「卿は……母のことを、守りたかったのですか」
バルドゥール卿は答えなかった。視線を薬草の茂みに戻し、しばらく黙っていた。やがて踵を返しながら、ひどく小さな声で言った。
「次はハインリヒの作業室だ。踏み込む機会を作る。準備しておけ」
それだけだった。エレノアは卿の背中が庭園の向こうに消えるまで見送り、静かに息を吐いた。
答えてもらえなかった。しかしあの沈黙は、否定でもなかった。
母の形見の香りを手首にそっと落とす。甘く、控えめで、芯の強い香り。
(もう少しで……何かが見えてくる)
薬草庭園に春の風が吹き、ラベンダーとローズマリーが静かに揺れた。




