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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

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第40話 北の渡り廊下

 夜が深まるにつれ、王宮の石造りの廊下は冷たく静まり返っていた。


 エレノアはラインハルトに今夜の件を報告しなかった、王太子は夜半まで重臣たちとの会議が続くと聞いていたからだ。ガスパールに短い書状を渡し、北の渡り廊下の近くで待機するよう頼んだ。それだけで精一杯であった。


 一人で動くことへの不安はあったが、機を逃せばハインリヒが誰と会うのか、永遠にわからなくなる。


 エレノアは地味な灰色のマントを羽織り、蝋燭も持たずに廊下へ出た。


 北の渡り廊下は王宮の外廷と内廷を繋ぐ細い通路で、昼間でも人通りが少ない。夜になれば使用人すら寄り付かない場所だった。


 暗闇の中を慎重に歩きながら、エレノアは鼻を澄ませた。


 石の冷たい匂い、湿った苔、遠くの蝋燭の蝋の残り香——その奥に、重厚なムスクの匂いが漂っていた。


(ハインリヒは、もう来ている)


 エレノアは足音を殺し、廊下の太い柱の影に身を潜めた。


 十数歩先の暗がりに、二つの人影があった。一つはハインリヒの太った輪郭。もう一つは——背が高く、細身で、貴族の上着を纏った男だった。


 声は低く抑えられており、言葉までは聞き取れない。しかしエレノアは目を閉じ、二つの人影から漂う香りに集中した。


 ハインリヒの重厚なムスク。そしてもう一人からは——冷たく乾いた、鉱物的な香りがした。調香師が使う素材ではない。貴族が纏う香水でもない。どこか、武器の手入れに使う油に似た、金属的な冷たさだった。


(この香り……どこかで)


 記憶を辿った瞬間、エレノアの胸が冷えた。


 先日の密書から検出された、南方産の香料と同じ系統の匂いだった。


 二人の会話が短く終わり、細身の男が踵を返した。エレノアは咄嗟に柱の影に深く身を潜めた。


 男がすぐ傍を通り過ぎる。


 暗くて顔は見えなかった。しかし、その肩に縫い付けられた小さな紋章が、廊下の遠い蝋燭の光にわずかに浮かび上がった。


 エレノアは息を止めてそれを目に焼き付ける。


 二頭の鷹が向かい合う紋章。見覚えがあった。数日前の謁見の間で、南方の使者の一人が身につけていたものと同じだった。


 足音が遠ざかり、やがて完全に消えた。


 エレノアは柱の影から出て、静かに元来た道を戻った。廊下の角を曲がったところで、ガスパールが暗がりの中に立っていた。


「大丈夫か」


「ええ。……見たものを、殿下に報告しなければ」


 ガスパールは無言で頷き、エレノアの前を歩いた。


 王太子の執務室に辿り着いたのは、会議が終わった直後のようだった。

 ラインハルトはエレノアの顔を見た瞬間、何かを察したように他の者を下がらせた。


 エレノアは静かに、しかし正確に目にしたことを報告した。ハインリヒが会っていた男のこと。金属的な香り。そして肩の紋章のこと。


 王太子の表情が、わずかに険しくなった。


「二頭の鷹……それはヴァルター伯爵家の紋章だ。南方との交易を独占している貴族で、以前から隣国との繋がりを疑われていた」


「ハインリヒ首席と、そのような人物が繋がっているとすれば」


「香房が、外部の者に利用されている可能性がある」


 重い沈黙が落ちた。

 ラインハルトはエレノアをまっすぐに見た。


「今夜は一人で動いたのだな」


「申し訳ありません。時間がなく……」


「謝罪はいい」


 王太子は短く息を吐いた。


「……よく無事だった」


 それだけだった。叱責でも称賛でもない、ただ静かな言葉だった。しかしその声音に、エレノアは胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。


 部屋を辞し、廊下を歩きながら、母の形見の香りをそっと手首に落とした。


(ハインリヒの背後に、外部の者がいる。

そして母の「忘却の霧」は、その繋がりの中で生まれたものかもしれない)


 夜の王宮に、冷たい石の匂いだけが静かに漂っていた。

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