第39話 茶会の香り
王妃殿下の茶会当日。
王宮の奥御殿にある茶会の間は、春の柔らかな光に満ちていた。白いテーブルクロス、銀の茶器、色とりどりの菓子が並ぶ華やかな空間。貴婦人たちの笑い声と、絹のドレスが擦れる音が重なり合っている。
エレノアは壁際に控え、香房の係として室内の香炉を管理する役目を任されていた。自分が調合した香水が、茶会の間のいくつかの香炉に使われている。
(今のところ、異常はない)
貴婦人たちは思い思いに談笑し、王妃殿下も穏やかな笑顔で席についていた。エレノアは自然な動作で香炉の確認をしながら、室内の空気を丁寧に嗅いだ。
自分の調合の香り。シダーウッドとガイアックウッドの沈んだ深み、ベチバーの陰影、カシュメランの柔らかな余韻。それらがローズとジャスミンの華やかさの下で静かに溶け合い、室内に上品な空気を作り出していた。
白樹脂の香りはない。自分の調合は、正しく機能している。
茶会が始まって一時間ほど経った頃、ハインリヒが室内に入ってきた。首席調香師として香炉の最終確認をする名目だった。彼はゆっくりと室内を歩き、香炉の一つ一つに鼻を近づけていった。
エレノアは壁際から、その動きを静かに目で追った。ハインリヒの表情が、わずかに曇る。
もう一度、別の香炉に鼻を近づける。眉が寄る。しかし確信が持てないのか、それ以上の反応は示さなかった。やがて彼はエレノアのそばに近づき、低い声で言った。
「……調合は指示通りにしたか」
「はい、首席」
「白樹脂も?」
「指示書の通りに」
ハインリヒはしばらくエレノアを見下ろしていた。重厚なムスクと腐敗した油の香りが、不快なほど近くに漂う。やがて彼は低く鼻を鳴らし、何も言わずに離れていった。
エレノアは表情を変えないまま、静かに息を吐いた。
(気づいていない。あるいは……確信が持てなかった)
茶会は何事もなく終わった。
王妃殿下が退室し、貴婦人たちが三々五々散っていく中、エレノアは香炉の片付けをしていた。
「エレノア」
低い声に振り返ると、ラインハルトが控えの間の入り口に立っていた。エレノアは香炉を置き、静かに歩み寄った。
「問題はなかったか」
「はい。ハインリヒ首席が香炉を確認しましたが、判別はできなかったようです」
王太子は無言で頷いた。そして短く言った。
「調合の記録は」
「こちらに」
エレノアは懐から折りたたんだ紙を取り出した。ラインハルトはそれを受け取り、素早く目を通した後、上着の内側にしまった。
「よくやった」
それだけ言い、ラインハルトは控えの間を跡にした。しかしその言葉は、いつもより少しだけ、重みがあるように聞こえた。
香炉の片付けを終え廊下を歩いていると、角からバルドゥール卿が現れた。偶然を装っているが、明らかに待っていた。
卿はエレノアの横を素通りしながら、低い声だけを残した。
「ハインリヒが今夜、誰かと会う。北の渡り廊下だ」
それだけだった。足音も立てず、振り返りもせず、卿は廊下の向こうに消えていった。エレノアは歩みを止めず、しかし胸の中で素早く考えた。
(今夜、北の渡り廊下……)
母の形見の香りを手首にそっと落とし、エレノアは静かに歩き続けた。




