第38話 ハインリヒの罠
バルドゥール卿との朝の会合から二日後、ハインリヒ首席からエレノアに呼び出しがかかった。
香房の奥、首席の作業室。重厚なムスクと腐敗した油の香りが、扉を開けた瞬間に押し寄せてくる。
「座れ」
ハインリヒは作業台の前に仁王立ちし、冷たい目でエレノアを見下ろした。
「最近、妙なところをうろついているな。薬草庭園、書庫、礼拝堂……香房の侍女にしては行動範囲が広すぎる」
エレノアは静かに頭を下げた。
「殿下より、王宮各所の香りの確認を命じられております」
「ほう」
ハインリヒは鼻で笑い、一枚の紙をエレノアの前に置いた。
「ならばこれをやってみろ。明後日の王妃殿下の茶会で使う特別な調合だ。私が配合の指示を書いた。お前の腕前とやらを見せてもらおう」
エレノアは紙を手に取り、配合の内容を確認した。
ローズ、ジャスミン、そして深みを出すためのサンダルウッド——表向きは上品で格調ある調合だった。しかし指示の最後に記された一行が目に入った。
『南方産白樹脂 少量添加』
エレノアの指が、わずかに止まった。
南方産の白樹脂。交易商人しか扱えない希少な素材で、先日の密書から検出されたものと同じ産地だった。微量であれば香りに柔らかな深みを加えるだけだが、量を誤れば——あるいは意図的に増やせば——神経を緩やかに侵す。
「どうした。難しいか?」
ハインリヒの声に、わずかな嘲りが混じっていた。エレノアは顔を上げ、静かに答えた。
「いいえ。謹んでお受けいたします」
作業室を出て、エレノアはすぐにラインハルトへ報告した。王太子は配合の指示書を一読し、無言で机に置いた。
「罠だな」
「はい。私が白樹脂をそのまま使えば、後から問題が出た際に私の調合が原因とされる。あるいは私が断れば、命令に従わない侍女として追放できる」
「どちらに転んでもお前が不利になる」
ラインハルトは静かにエレノアを見た。
「お前はどうしたい」
エレノアは少し考えてから、答えた。
「……作ります。ただし、白樹脂だけを別の無害な組み合わせで再現して。表向きは指示通りに見える調合で」
王太子は短く息を吐いた。
「差異に気づかれれば終わりだ」
「ハインリヒ首席の鼻では、おそらく判別できないと思います」
一瞬の沈黙の後、ラインハルトがわずかに口元を動かした。
「……随分と自信があるな」
「香りのことだけは」
エレノアは静かに、しかしはっきりと答えた。
王太子は短く頷いた。
「わかった。進めろ。ただし調合の記録は必ず残しておけ。後の証拠になる」
その夜、エレノアは一人で作業台に向かった。
白樹脂の代わりに何を使うか。棚の前に立ち、一本一本の香料瓶を手に取りながら考えた。
必要なのは白樹脂が持つ三つの要素だった。柔らかく沈んだ重み。ほのかに甘い余韻。そして肌に溶け込むような深さ。それを別の素材で再現しなければならない。
エレノアは静かに考え、四本の瓶を選んだ。
まずシダーウッド。乾いた杉の落ち着きが、白樹脂の持つ重厚な骨格に近い土台を作る。
次にガイアックウッド。聖なる木とも呼ばれるこの樹脂は、スモーキーで神秘的な深みを持ち、白樹脂特有の沈んだニュアンスを自然に補う。
そこにベチバーをごく少量。根と土の香りが、全体に樹脂らしい重みと陰影を加える。
最後にカシュメランを一滴だけ。柔らかく甘い余韻が、白樹脂が本来担うはずだった深みを静かに、しかし確かに再現する。四つを慎重に混ぜ合わせ、ローズとジャスミン、サンダルウッドの調合に加えた。
蝋燭の灯りの下で、エレノアは完成した香りをそっと嗅いだ。白樹脂とは異なる。しかし遠くから嗅げば、同じ系統の深みと甘さを持つ調合に聞こえる。少なくとも、ハインリヒの鼻には。
(これなら、気づかれない)
エレノアは調合の詳細を紙に書き留め、丁寧に折りたたんで懐にしまった。完成した香水瓶を灯りにかざすと、淡い黄金色の液体が静かに揺れた。
母の形見と、よく似た色だった。
(ハインリヒ首席は私を潰そうとしている。
それはつまり……私が、何かに近づきすぎているということ)
蝋燭の炎が小さく揺れ、作業室に静寂が戻った。




