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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

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第38話 ハインリヒの罠

 バルドゥール卿との朝の会合から二日後、ハインリヒ首席からエレノアに呼び出しがかかった。

 香房の奥、首席の作業室。重厚なムスクと腐敗した油の香りが、扉を開けた瞬間に押し寄せてくる。


「座れ」


 ハインリヒは作業台の前に仁王立ちし、冷たい目でエレノアを見下ろした。


「最近、妙なところをうろついているな。薬草庭園、書庫、礼拝堂……香房の侍女にしては行動範囲が広すぎる」


 エレノアは静かに頭を下げた。


「殿下より、王宮各所の香りの確認を命じられております」


「ほう」


 ハインリヒは鼻で笑い、一枚の紙をエレノアの前に置いた。


「ならばこれをやってみろ。明後日の王妃殿下の茶会で使う特別な調合だ。私が配合の指示を書いた。お前の腕前とやらを見せてもらおう」


 エレノアは紙を手に取り、配合の内容を確認した。

 ローズ、ジャスミン、そして深みを出すためのサンダルウッド——表向きは上品で格調ある調合だった。しかし指示の最後に記された一行が目に入った。


『南方産白樹脂 少量添加』


 エレノアの指が、わずかに止まった。


 南方産の白樹脂。交易商人しか扱えない希少な素材で、先日の密書から検出されたものと同じ産地だった。微量であれば香りに柔らかな深みを加えるだけだが、量を誤れば——あるいは意図的に増やせば——神経を緩やかに侵す。


「どうした。難しいか?」


 ハインリヒの声に、わずかな嘲りが混じっていた。エレノアは顔を上げ、静かに答えた。


「いいえ。謹んでお受けいたします」


 作業室を出て、エレノアはすぐにラインハルトへ報告した。王太子は配合の指示書を一読し、無言で机に置いた。


「罠だな」


「はい。私が白樹脂をそのまま使えば、後から問題が出た際に私の調合が原因とされる。あるいは私が断れば、命令に従わない侍女として追放できる」


「どちらに転んでもお前が不利になる」


 ラインハルトは静かにエレノアを見た。


「お前はどうしたい」


 エレノアは少し考えてから、答えた。


「……作ります。ただし、白樹脂だけを別の無害な組み合わせで再現して。表向きは指示通りに見える調合で」


 王太子は短く息を吐いた。


「差異に気づかれれば終わりだ」


「ハインリヒ首席の鼻では、おそらく判別できないと思います」


 一瞬の沈黙の後、ラインハルトがわずかに口元を動かした。


「……随分と自信があるな」


「香りのことだけは」


 エレノアは静かに、しかしはっきりと答えた。

 王太子は短く頷いた。


「わかった。進めろ。ただし調合の記録は必ず残しておけ。後の証拠になる」


 その夜、エレノアは一人で作業台に向かった。

 白樹脂の代わりに何を使うか。棚の前に立ち、一本一本の香料瓶を手に取りながら考えた。

 必要なのは白樹脂が持つ三つの要素だった。柔らかく沈んだ重み。ほのかに甘い余韻。そして肌に溶け込むような深さ。それを別の素材で再現しなければならない。

 エレノアは静かに考え、四本の瓶を選んだ。

 まずシダーウッド。乾いた杉の落ち着きが、白樹脂の持つ重厚な骨格に近い土台を作る。

 次にガイアックウッド。聖なる木とも呼ばれるこの樹脂は、スモーキーで神秘的な深みを持ち、白樹脂特有の沈んだニュアンスを自然に補う。

 そこにベチバーをごく少量。根と土の香りが、全体に樹脂らしい重みと陰影を加える。

 最後にカシュメランを一滴だけ。柔らかく甘い余韻が、白樹脂が本来担うはずだった深みを静かに、しかし確かに再現する。四つを慎重に混ぜ合わせ、ローズとジャスミン、サンダルウッドの調合に加えた。

 蝋燭の灯りの下で、エレノアは完成した香りをそっと嗅いだ。白樹脂とは異なる。しかし遠くから嗅げば、同じ系統の深みと甘さを持つ調合に聞こえる。少なくとも、ハインリヒの鼻には。


(これなら、気づかれない)


 エレノアは調合の詳細を紙に書き留め、丁寧に折りたたんで懐にしまった。完成した香水瓶を灯りにかざすと、淡い黄金色の液体が静かに揺れた。


 母の形見と、よく似た色だった。


(ハインリヒ首席は私を潰そうとしている。

それはつまり……私が、何かに近づきすぎているということ)


 蝋燭の炎が小さく揺れ、作業室に静寂が戻った。

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