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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

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第37話 卿の過去

 翌朝、エレノアはバルドゥール卿に短い書状を送った。


 ハインリヒの部屋から「忘却の霧」に似た香りがしたこと。完成された調合であること。それだけを簡潔に記した。

 返事は夕刻に届いた。


『明日の朝、香房裏の薬草庭園へ』


 翌朝の薬草庭園は、朝霧に包まれていた。ラベンダーとローズマリーが湿った空気の中で静かに香っている。エレノアはガスパールを遠くに控えさせ、一人で待った。

 バルドゥール卿は時間通りに現れた。いつもの濃紺の上着、感情を映さない瞳。挨拶もなく、開口一番に言った。


「ハインリヒが第三調合を持っているとすれば、話が変わる」


「どういう意味ですか」


「あの調合を完成させられる調香師は、この王国に一人しかいなかった」


 それだけ言って、卿は黙った。エレノアが続きを促す前に、彼は踵を返しかけた。


「待ってください。卿は母をご存知だったのですか」


「……知っていた」


 振り返らないまま、短く答えた。


「どのようなご関係だったのですか」


「関係など、ない」


 即答だ。しかしその言葉はどこか、早すぎた。

 エレノアはもう一歩踏み込んだ。


「卿は……なぜ私に依頼をしたのですか。王宮には他にも調香師がいます」


 しばらく間があった。


「お前の鼻が使えると聞いたからだ」


「それだけですか」


 バルドゥール卿はようやく振り返った。灰色の瞳がエレノアを見る。感情はない。ただ、その視線がほんの一瞬だけ、どこか別のものを見たように揺れた。


「……ハインリヒには気づかれるな」


「なぜですか」


「余計なことは聞くな」


 それだけ言い、今度こそ踵を返した。霧の中に消えていく背中は、最初から最後まで一度も迷わなかった。

 エレノアは薬草の冷たい香りの中で立ち尽くした。素っ気ない。答えになっていない。しかしあの一瞬の間が、どうしても頭から離れなかった。


(卿は何かを、知っている。

そして何かを……言わないと決めている)


 朝霧が晴れていく薬草庭園に、ラベンダーの静かな香りだけが残っていた。

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