第37話 卿の過去
翌朝、エレノアはバルドゥール卿に短い書状を送った。
ハインリヒの部屋から「忘却の霧」に似た香りがしたこと。完成された調合であること。それだけを簡潔に記した。
返事は夕刻に届いた。
『明日の朝、香房裏の薬草庭園へ』
翌朝の薬草庭園は、朝霧に包まれていた。ラベンダーとローズマリーが湿った空気の中で静かに香っている。エレノアはガスパールを遠くに控えさせ、一人で待った。
バルドゥール卿は時間通りに現れた。いつもの濃紺の上着、感情を映さない瞳。挨拶もなく、開口一番に言った。
「ハインリヒが第三調合を持っているとすれば、話が変わる」
「どういう意味ですか」
「あの調合を完成させられる調香師は、この王国に一人しかいなかった」
それだけ言って、卿は黙った。エレノアが続きを促す前に、彼は踵を返しかけた。
「待ってください。卿は母をご存知だったのですか」
「……知っていた」
振り返らないまま、短く答えた。
「どのようなご関係だったのですか」
「関係など、ない」
即答だ。しかしその言葉はどこか、早すぎた。
エレノアはもう一歩踏み込んだ。
「卿は……なぜ私に依頼をしたのですか。王宮には他にも調香師がいます」
しばらく間があった。
「お前の鼻が使えると聞いたからだ」
「それだけですか」
バルドゥール卿はようやく振り返った。灰色の瞳がエレノアを見る。感情はない。ただ、その視線がほんの一瞬だけ、どこか別のものを見たように揺れた。
「……ハインリヒには気づかれるな」
「なぜですか」
「余計なことは聞くな」
それだけ言い、今度こそ踵を返した。霧の中に消えていく背中は、最初から最後まで一度も迷わなかった。
エレノアは薬草の冷たい香りの中で立ち尽くした。素っ気ない。答えになっていない。しかしあの一瞬の間が、どうしても頭から離れなかった。
(卿は何かを、知っている。
そして何かを……言わないと決めている)
朝霧が晴れていく薬草庭園に、ラベンダーの静かな香りだけが残っていた。




