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『影の調香師は王宮の謎を嗅ぐ ~没落貴族令嬢、香りで真実を暴く~』  作者: 9 10
第一章 王宮の調香師

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第36話 主席の香り

 その夜、エレノアは眠れなかった。


 母の形見のノートを膝の上に広げ、蝋燭の灯りの下で何度も読み返した。第一調合の記録は丁寧に残されているのに、第二、第三については一行も記されていない。まるで、意図的に切り取られたように。


 翌朝、エレノアは香房に早めに出向いた。


 首席調香師ハインリヒの私室は香房の奥にある。普段は立ち入りを禁じられているが、朝の在庫確認という名目で、扉の前まで近づくことはできた。

 扉の隙間から漂ってくる香りを、エレノアは慎重に嗅いだ。

 重厚なムスク。腐敗した油の残り香。そして——


(……ある)


 甘く鋭い、あの異臭。「忘却の霧」に似た成分が、確かにそこに混じっていた。


「何をしている」


 低い声に、エレノアは肩を震わせた。

 振り返ると、ハインリヒが廊下の奥から歩いてくるところだった。太った体に重厚な上着、冷たい目がエレノアを捉えている。


「在庫の確認をしておりました」


「この時間に?」


「殿下より、朝一番の確認を命じられておりますので」


 嘘ではなかった。ラインハルトは常にエレノアに朝の確認を命じている。ハインリヒはしばらくエレノアを睨んでいたが、やがて鼻で笑った。


「せいぜい、香りでも嗅いでいろ」


 彼は扉を開け、部屋に入っていった。

 その瞬間、扉の隙間から漂い出した香りが、エレノアの鼻を強く刺激した。


 甘く、重く、そして冷たい香り。


 「忘却の霧」の第三調合に極めて近い、完成された調合の香りだった。エレノアは表情を変えないまま廊下を歩き、香房の作業台に戻った。手が微かに震えていた。


(ハインリヒ首席は……あの香りを持っている。

しかも、完成された形で)


 午後、王太子の執務室で報告した。

 ラインハルトは黙って聞き、しばらく窓の外を見ていた。


「証拠として使えるか」


「香りだけでは難しいです。ただ……部屋の中を直接確認できれば」


「それは今は動かせない。ハインリヒを警戒させれば、証拠を隠滅される」


 王太子は静かにエレノアを見た。


「バルドゥールに伝えろ。あの男ならば、別の角度から動ける」


 エレノアは頷いた。そして、少し迷ってから口を開いた。


「殿下……もし母がその調合を強制されていたとしたら、母は罪人になるのでしょうか」


 ラインハルトはエレノアをまっすぐに見つめた。長い沈黙の後、静かに言った。


「それを決めるのは、真実が明らかになってからだ」


 答えではなかった。しかし、切り捨てる言葉でもなかった。エレノアは深く頭を下げ、執務室を出た。廊下に出た瞬間、母の形見の香りをそっと嗅いだ。

 甘く、控えめで、芯の強い香り。


(母様……必ず、真実を見つける)

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