第36話 主席の香り
その夜、エレノアは眠れなかった。
母の形見のノートを膝の上に広げ、蝋燭の灯りの下で何度も読み返した。第一調合の記録は丁寧に残されているのに、第二、第三については一行も記されていない。まるで、意図的に切り取られたように。
翌朝、エレノアは香房に早めに出向いた。
首席調香師ハインリヒの私室は香房の奥にある。普段は立ち入りを禁じられているが、朝の在庫確認という名目で、扉の前まで近づくことはできた。
扉の隙間から漂ってくる香りを、エレノアは慎重に嗅いだ。
重厚なムスク。腐敗した油の残り香。そして——
(……ある)
甘く鋭い、あの異臭。「忘却の霧」に似た成分が、確かにそこに混じっていた。
「何をしている」
低い声に、エレノアは肩を震わせた。
振り返ると、ハインリヒが廊下の奥から歩いてくるところだった。太った体に重厚な上着、冷たい目がエレノアを捉えている。
「在庫の確認をしておりました」
「この時間に?」
「殿下より、朝一番の確認を命じられておりますので」
嘘ではなかった。ラインハルトは常にエレノアに朝の確認を命じている。ハインリヒはしばらくエレノアを睨んでいたが、やがて鼻で笑った。
「せいぜい、香りでも嗅いでいろ」
彼は扉を開け、部屋に入っていった。
その瞬間、扉の隙間から漂い出した香りが、エレノアの鼻を強く刺激した。
甘く、重く、そして冷たい香り。
「忘却の霧」の第三調合に極めて近い、完成された調合の香りだった。エレノアは表情を変えないまま廊下を歩き、香房の作業台に戻った。手が微かに震えていた。
(ハインリヒ首席は……あの香りを持っている。
しかも、完成された形で)
午後、王太子の執務室で報告した。
ラインハルトは黙って聞き、しばらく窓の外を見ていた。
「証拠として使えるか」
「香りだけでは難しいです。ただ……部屋の中を直接確認できれば」
「それは今は動かせない。ハインリヒを警戒させれば、証拠を隠滅される」
王太子は静かにエレノアを見た。
「バルドゥールに伝えろ。あの男ならば、別の角度から動ける」
エレノアは頷いた。そして、少し迷ってから口を開いた。
「殿下……もし母がその調合を強制されていたとしたら、母は罪人になるのでしょうか」
ラインハルトはエレノアをまっすぐに見つめた。長い沈黙の後、静かに言った。
「それを決めるのは、真実が明らかになってからだ」
答えではなかった。しかし、切り捨てる言葉でもなかった。エレノアは深く頭を下げ、執務室を出た。廊下に出た瞬間、母の形見の香りをそっと嗅いだ。
甘く、控えめで、芯の強い香り。
(母様……必ず、真実を見つける)




