第35話 灰色の同盟
翌朝、エレノアはバルドゥール卿から三度目の書状を受け取った。
今回は場所も時間も記されておらず、ただ一枚の古い香料のラベルが同封されていた。
褪せた紙に、母の筆跡で記された文字。
『忘却の霧 第三調合』
エレノアの手が止まった。
母のノートに記されていたのは「第一調合」までだった。続きが存在していたとは知らなかった。
その日の午後、バルドゥール卿が香房の近くを通りかかった。偶然を装った、明らかに計算された通り道だった。
エレノアは自然な動作で会釈し、二人は誰も気に留めない速度で廊下を並んで歩いた。
「ラベルは受け取ったか」
「はい。……第三調合が存在していたとは知りませんでした」
「マリアは少なくとも三段階の調合を完成させていた。第一は穏やかな記憶の霞。第二は特定の感情の抑制。そして第三は——」
バルドゥール卿は一瞬だけ声を低めた。
「対象者の特定の記憶だけを、選んで消す」
エレノアは歩きながら、息が浅くなるのを感じた。
「そんなものが……本当に作れるのですか」
「お前の母は作った。八年前、それを誰かに命じられて」
「誰に」
卿は答えなかった。廊下の角で足を止め、周囲を一度確認してからエレノアを見た。
「今はまだ言えない。ただ、一つだけ聞かせてくれ。お前はその調合の残り香を、嗅いだことがあるか」
エレノアは考えた。母の形見の香水。あの「影の香り」に含まれていた、微かな苦みとほのかな甘さ。王宮に来て初めて嗅いだ、書庫の古文書の異臭。そして——
「……ハインリヒ首席の部屋から、似た香りがしたことがあります」
バルドゥール卿の表情が、初めてわずかに動いた。
「そうか」
それだけ言い、彼は踵を返した。
「引き続き、頼む。お前の鼻だけが、今この王宮で信用できる唯一の道具だ」
エレノアは立ち止まり、その背中に静かに問いかけた。
「卿は……母を守ろうとしていたのですか」
バルドゥール卿は歩みを止めなかった。
しかし、その肩がほんのわずか、動いたように見えた。
廊下の向こうに消えていく灰色の背中を見送り、エレノアは母の形見の香りをそっと手首に押し当てた。
甘く静かな香りの奥に、今まで気づかなかった微かな苦みを、初めてはっきりと感じた。
(母様……あなたは、何に消させられたの)




