第32話 灰色の依頼人
ある日の午後、エレノアは見知らぬ使いから短い書状を受け取った。
差出人の名はなく、ただ一行だけ記されていた。
『明日の朝、書庫の南棚。ある香りを調べてほしい』
署名の代わりに、小さな蠟の紋章が押されていた。エレノアはそれをラインハルトに見せた。
「バルドゥール卿の紋章だな」
王太子の声音は微妙だった。否定でも肯定でもない、測るような沈黙が続いた。
「……どのような方ですか」
「高位に近い中堅貴族。表の顔は文官寄りの調停者だが、何を考えているか正直もからない。敵ではないが、味方とも言い切れない」
ラインハルトはしばらくエレノアを見つめた後、短く言った。
「行ってもいい。ただし一人では行くな」
翌朝、エレノアはルーカスを遠くに控えさせ、書庫へと向かった。
そこに男が一人、静かに立っていた。
年齢は三十代半ばほど。灰色がかった茶髪を短く整え、装飾を排した濃紺の上着を身につけている。顔立ちは整っているが表情に乏しく、まるで彫刻のようだった。
「エレノア・ローゼンフェルト。来てくれたか」
声は低く、感情の起伏がない。
「バルドゥール卿でいらっしゃいますか」
「そうだ。単刀直入に言う。この棚の古文書から、特定の香りがしている。それが何か、教えてほしい」
エレノアは指定された棚に近づき、鼻を近づけた。
古い羊皮紙の匂い、埃、羊脂蝋燭の残り香——その奥に、微かな、甘く鋭い異臭が沈んでいた。
「……これは、記憶に干渉する成分を持つ香料です。微量ですが、長期間吸っていれば、集中力と記憶力が少しずつ損なわれることがあります。」
バルドゥール卿は表情を変えなかった。
「やはりそうか」
「この棚をよく使われているのですか」
「ある文官がな。三ヶ月前からここで毎日作業をしているらしいのだが。最近、重要な会議で判断の誤りが増えた」
彼はそれだけ言うと、静かに踵を返した。
「礼はする。ただし、この件は他言無用で頼む」
エレノアは彼の背中に問いかけた。
「……なぜ、私に?」
バルドゥール卿は振り返らずに答えた。
「あなたの鼻が信用できると聞いたからだ」
廊下に消えていく灰色の背中を見送り、エレノアは静かに息を吐いた。
(敵なのか、味方なのか……この時点ではわからないわ)




