第26話 官僚たちの視線
王太子の私室に朝の柔らかな光が差し込む頃、エレノアはいつものように部屋の隅に控えていた。
石造りの壁と重厚な木製の家具が織りなす空間は、冷たい鋼とわずかな墨の香りが混じり合っている。彼女は王太子が昨夜着ていたコートの袖口をそっと持ち上げ、香りを丁寧に確認した。
表面は清潔な石鹸と、ほのかな森林のニュアンス。だがその奥に、疲労と緊張が長く続いていることを示す、わずかに乾いたような残り香を感じ取った。
「殿下、相変わらずあまりお休みになれなかったようですね」
控えめな声で告げると、ラインハルトは執務机から顔を上げた。銀灰色の瞳が、静かにエレノアを捉える。
「……そうだな。本当によくわかるものだ。」
「正直、毎日疲れてらっしゃるのでもう誰でもわかると思いますが」
王太子は軽く息を吐き、書類に視線を戻した。
「それもそうか。慣れているつもりだがどうにも隠せないものだな。」
エレノアは視線を落としたまま、静かに答えた。
「はい……ですが、本日は特に疲れてらっしゃるのも事実でございます。連日の疲れが香りに出てらっしゃいます。」
王太子はしばらく無言で彼女を見つめていたが、やがて短く言った。
「そうか、ならその元凶をお前に任せたい。」
エレノアは顔を上げ王太子を見る。
「今日の午後、高位貴族たちとの謁見がある。その場に控えて香炉と室内の香りを確認してくれ」
「畏まりました、殿下」
エレノアは深く頭を下げた。
王太子の側仕えになってまだ十日ほどしか経っていないが、すでに自分が望んでいた「目立たぬ存在」からは遠ざかっていることを強く実感していた。
午後の謁見の間、エレノアは壁際に控え、室内に焚かれた香炉の香りを集中して嗅いだ。
表向きは高貴で上品な樹脂の香りだったが、その奥底に微かな興奮を誘う成分が混ざっているのを感じ取った。
謁見が終わった後、王太子はエレノアだけを残して尋ねた。
「どうだった?」
「……香炉の香りに、相手の判断力を少し鈍らせる成分が微量ですが混ざっていました。以前南方の使者との謁見の時も含まれていたものです。用心された方がよろしいかと存じます」
王太子は静かに頷いた。
「わかった、そうしよう。……お前のことは信用しているからな。それにしても、こうなると意図的に混ぜられていると考えるしかないな。」
褒め言葉に近い言葉をかけられ、エレノアは頰がわずかに熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
(目立ちたくはない……でも殿下の視線に以前とは違ったものが感じられる)
その日の夕方、香房に戻る廊下で、エレノアは官僚たちの冷たい視線をいくつも浴びた。
彼らの間では、すでに「王太子の新しい側仕え」についての噂が広がっているようだった。




