第17話 書庫の灯りと小さな影
王宮書庫の薄暗い一角は、いつも重厚な沈黙に包まれていた。
高い石の天井から吊るされた蝋燭の灯りが、埃っぽい棚と古い羊皮紙の束を柔らかく照らしている中世の王国らしい、静謐で知的な空間だった。
エレノアは奥まった机に座り、古い香料に関する写本を慎重にめくっていた。百年前の調香師が残した記録には、当時の蒸留技術や、珍しい樹脂の使い方が詳細に記されている。彼女は母から受け継いだ知識と照らし合わせながら、静かにページを追っていた。
「ここか」
低い落ち着いた声が響き、ルーカスが静かに近づいてきた。黒髪の細身の若手騎士は、いつものように物静かな表情を浮かべている。
エレノアは軽く頭を下げ、控えめに言った。
「ルーカス様……ここで会うとは珍しいですね」
「少し調べ物があってな。……君も香料の写本か?」
二人は自然と隣り合って座り、しばらく百年前の調香技術について穏やかに語り合った。
ルーカスは意外と知識が豊富で、当時の錬金術的な手法について的確な質問を投げかけてきた。
話の途中で、ルーカスがふと声を潜めた。
「実は……書庫の奥の棚で、少し変な香りがしたんだ。古い地図の束から、微かに酸っぱいような匂いなんだが」
エレノアの表情がわずかに引き締まった。
「案内していただけますか?」
ルーカスに連れられて書庫のさらに奥へ進むと、確かに微かな異臭が漂っていた。
エレノアはしゃがみ込み、地図の束に鼻を近づけた。
「……これは、防虫用の薬剤に問題のある成分が混ざっています。長期間置いておくと、紙が劣化し、古文書が損傷する可能性があります。誰かが意図的に混ぜたものかもしれません」
ルーカスは真剣な顔で頷いた。
「やはりか……。最近、書庫の管理も緩くなっている。君の鼻がなければ、正直見逃すところだった」
二人は目立たないよう周囲を確認し、問題の地図の束だけを安全な場所に移した。
尚、問題の書物は後日ラインハルトに報告し信頼のおける文官たちの手によって複写されたそうだ。
作業を終えた後、ルーカスはエレノアを静かに見つめ、珍しく言葉を続けた。
「君の知識と判断力は本当に信頼できる。俺は……騎士として、もっと役に立ちたいと思っているんだ。何かあれば、遠慮なく頼ってくれ」
エレノアは控えめに微笑みながら答えた。
「ありがとうございます、ルーカス様。でも私は目立たないようにしていたいので……皆さんも、どうか無理はなさらないでください」
ルーカスは静かに頷き、去っていった。一人になったエレノアは、古い写本に視線を落としながら胸の内で思った。
(ルーカス様も……良い人だわ。でも、こうして信頼されるたび、私は少しずつ目立ってしまう気がする)
書庫の蝋燭の灯りが、彼女の横顔を静かに照らしていた。




