第10話 影の調香師
翌々日、騎士団の訓練場近くで小さな事件が起きた。
王太子の側近騎士の一人が、剣の手入れ油に毒を混入され、軽い中毒症状を起こした。エレノアは現場に呼ばれ、手袋と油の匂いを慎重に嗅いだ。
「これは……ムスクとローズを多用した、首席調香師の好む調合に似ています」
調査の結果、ハインリヒ首席への疑いが強まった。
事件解決後、王太子の執務室でラインハルトはエレノアに言った。
「貴女の功績は認める。
……もう『影の調香師』という渾名が広がり始めているようだ。覚悟はできているか?」
エレノアはわずかに眉を寄せた。
「その呼び名は……できれば避けたいのですが。
私は目立たないようにしておりたいのです。余計な注目は、かえって動きにくくなります」
ラインハルトは彼女をじっと見つめ、珍しく小さく口元を緩めた。
「ふむ。意外と慎重な性格だな。
わかった。表立って褒めることは控えよう。
ただし、これからも私の傍で、香りを嗅いでくれ。……エレノア」
初めて名前で呼ばれた瞬間、エレノアの頰がわずかに赤らんだ。
彼女は深く頭を下げ、できるだけ感情を抑えた声で答えた。
「はい、殿下。
目立たぬ範囲で、精一杯務めさせていただきます」
王宮の長い廊下を戻りながら、エレノアは母の形見の香りを手首にそっと落とした。
甘く、静かで、控えめな香り。
目立ちたくない彼女にとって、この香りは自分自身を表しているようだった。
(これで少しは……目立たずに済むといいけれど)




