9.呪い。あるいは、
帰路に着いた後、しばらくは落ち着いて毎日を過ごす予定だった。そうじゃないと、色んな感情が混ざり合って混乱してしまいそうだったから。
色水を胸に流し込まれたみたいに、心がうるさかった。山から降りて、町を一歩一歩進む度に、あたしの胸は高鳴った。見慣れた町の景色が、まるで知らない場所のよう。
けれど、機会を見据えていたように、運命はあたしたちを呼び寄せる。
下山して数日後、あたしと兄さんは空っぽになった長屋を見下ろしていた。古い箪笥に収まっていた衣類と、囲炉裏の周りにある茶碗と湯飲みを片付けるのに半日もかからなかった。まるで、こうなるのを見越していたみたいに。
あたしたちが山に登った日、我聞さんは静かに息を引き取った。
持ち主のいなくなった部屋に、喧噪の混じった風が入り込んでくる。そういえば、今日は祭りの日だ。
「我聞さん、足を悪くするまでは、毎年のように神輿を担いでたんだって」
「言ってた。だから、ぼくが祭りに連れて行く約束をしていたんだ」
繕い終わった褞袍を抱きしめた兄さんは、深く息をついて俯く。灯りのない部屋の中では、あやめさんを射止めた苛烈な炎は見えない。海の底に似た黒い瞳は、暗く沈んでいる。
「喧嘩別れみたいになっちゃったな。あのままそばにいたら、助けられたのかな」
「兄さんは、山に登ったことを後悔してる?」
戸惑うことなく、兄さんは首を横に振る。
「じゃあ、我聞さんも安心して送り出せたと思ってるよ。いつも兄さんのこと、心配してたもん。人のことばっかりだーって」
兄さんは苦笑した。
「ぼくは全然苦じゃなかったのに。罪滅ぼしだけじゃない、単純に、人の役に立てるのは嬉しかったよ」
「度が過ぎてるんだよ。それに、辛気くさい顔した人に世話されても、気まずいだけだよ」
「ひどいな。そんなにぼくは暗い顔をしてる?」
「暗いを通り越して、この世の終わりを悟ったような顔してる時あったよ」
「この世の終わりは考えたことなかったな」
「そうだよ。この世は、兄さんが考えても考えても考えが及ばないぐらい、どうしようもないことだってあるんだよ」
それは例えば、人の死だったり、未曾有の大災害だったり。個人の努力ではどうしようもない天災が、時たま頭から降りかかってくる。
人はその運命を、選べない。
「山で会った時のあやめさんみたいな顔、ずっとしてた」
そう言うと、兄さんは目を大きく開いた。
「……そうか」
「そんないつ来るかわからない未来より、今日のおかずの心配をしてほしいな」
「贅沢まではいかないけど、いつもなにかしら採ってきてるだろ?」
「頭に乗っけてね」
雰囲気は賑やかだけど、空気は湿っぽい。祭りに水を差されるかもしれない。
名残惜しげに10年間通い続けた部屋を見下ろす、兄さん。あたしはゆっくりとその扉を閉めた。その足が、前に進むことだけを祈って。
「そんな気分じゃないと思うけど、神社に寄ってもいい?」
「いいけど、どうした?」
「メルさんに、祭りのお土産を頼まれてるの」
メルさんはまだ家に滞在している。数日後に台風が来る予感がすると言って、旅立ちを延期している。人魚は天候が読めるから、漁に出るあたしたちにはありがたい限りだ。
下山してから口数の少なかったメルさんだが、祭りがあることを知ると、おずおずと言い出した。
「ウシオは旅に出ても、必ずこの海に帰ってきた。この町を見守っていた。奴は人の賑わいが好きじゃった。いつも、祭りを遠巻きに眺めておったそうな」
呆れていて、それでいて愛おしくて堪らないと言った顔で続けた。
「だから、奴が愛し焦がれたものがどんなものなのか、儂にひとつ見せてはくれんか」
とは言っても、祭りの雰囲気を持って帰れるわけじゃない。潮君が愛したのは、きっと人が集まって、前向きに生きようと鼓舞している営みそのものなんだろう。雨や豊作を祈る一方で、多くの資材と人が必要な祭りは、逆に言えば豊かさの象徴とも言える。
真之介さん風に言わせれば、感情と言葉が行き交い、生きるために行う連続的な営みに魅力を感じていたのかもしれない。
そんな抽象的なもの、どうやって持って帰るよ。 事の成り行きを聞いた兄さんも首を傾げていた。
「そもそも形のあるもので納得してもらえるのかな」
「わからないからこそ、あやめさんも見て回っているのかもしれない。潮さんが見て回った世界を」
そう言って兄さんは空を仰ぐ。
あやめさんはあの秘密基地を直したら、すぐにまた他の場所へと行ってしまうらしい。災害の後も、蛹になった潮君を背負って各地を放浪していたそうだ。
まるでいつかの潮君みたいに。
立ちこめた雲と連峰に囲まれた神社は、昂揚した声が反芻している。
切って間もない木材の匂いの中に、人の熱気と湿度が混じっている。夏でもないのに、汗をかいてしまいそう。
通り過ぎる人たちはみんな笑顔を浮かべている。対して、端っこで立ちぼうけしているあたしと兄さんは、さぞ気難しい顔をしているだろう。せっかくの祭りなのに。
屋台の裏に回って川沿いに来ても、湿気は変わらない。これはこの後、本格的に雨になるかもしれない。その前にお土産を選んでしまわないと。
「き、金魚掬い……とか?」
「魚から離れた方がいい。完全に見た目から連想してるだろ」
「難しい。張り切って任せてくださいって言っちゃったけど、兄さんが5日連続バラムツを持って帰ってきた時より、頭を使ってるよ……」
「他に食べるものがなくて大変だった」
安心安全な食べ物が手に入るようになって本当によかった。もう厠の心配はしたくない。
朝からぶっ続けで片付けをしていたせいか、食べ物のことを連想した途端、お腹が空いてきた。例え連想したのがお腹とお尻の破壊神だとしても。
屋台の数は少ないけれど、お腹の足しになるようなものはいくつかある。雨が降る前に帰りたいけど、ここはひとつ腹ごなしした方がいいのかもしれない。
でも、この場所で兄さんをひとりにしてもいいのかな。軽口に付き合ってくれているけど、無理をしているのが見てわかる。
一旦この場を離れても大丈夫か、確認してからにしよう。
そう思って振りかえった先には、真之介さんの生首が浮かんでいた。
「鈴ちゃん、ここにいたんだね」
うわ喋った。
よく見ると、石垣の下から頭だけ伸ばしてこっちを見ている。近づくと、背中からメルさんの頭が見えた。すっぽりと頭から尾ひれまで布でくるまれている。なるほど、端から見たら幼児を背負っているようにしか見え……いや、人攫いかも。
「あのね、メルさんが、もうすぐ大雨になるから早めに帰った方がいいって。僕だけ伝えに来てもよかったんだけど、どうせ行くなら、少しでも雰囲気を味わって貰った方がいいかなって思ったんだ」
「案の定考えあぐねていたようだしな。すまぬ、無理を言うた」
メルさんの苦笑いに、胸が痛くなる。
「情けないの。人よりずっと長く生きておるというのに、未練がましく何かに縋り付こうとしてしまう」
祭りを彩る灯りが、メルさんの瞳を泳いでいく。長い睫が濃い影を作って、細められた目はここにはない影を探した。
「お主らには悪いが、儂はあの女が嫌いじゃ。儂は、どんな理由があっても、肉喰いを許すわけにはいかない。それを許すことは、儂らの存続に関わる」
「それは、無理のない話だと思います。あたしたちがそれを責めるつもりはないですし、むしろ辛い事実に付き合わせてしまってすみません」
もし、潮君を探そうとしなければ、メルさんは潮君がもういないことを知らずに済んだ。それに付き合わせたのはあたしたちだ。
「良い。今回のことがなければ、ずっとしこりのように残り続けていただろう。それに、安否もわからぬまま会えなくなる同族は多い。最期が知れただけ、まだ幸せな方なのかもしれぬ」
生死がわからない宙ぶらりんのまま放置される。それは、10年苦しみ続けたあたしたちとは、比にならない長さなんだろう。
「ただ悔やまれるのは、潮の悲願があのような形で叶ってしまったということだけじゃ」
あやめさんは、潮君の願いを叶えるために、潮君の肉を食べた。
潮君は、家畜として死んだわけじゃない。そうわかっていても、心のどこかで納得できていない。
傍観者のあたしでさえ、他の道はなかったのかと考えてしまうくらいなんだから。
「儂なら、奴のことを永遠の憶えてやれる。それなのに、何故」
メルさんは、絞り出すように言った。
「何故、あの女なのじゃ。潮が娘のように可愛がった、あの娘なのじゃ」
顔を歪めて今にも泣きそうな顔をすると、ただの女の子に見える。お気に入りの玩具を奪われて、駄々をこねる子どものように。本当は、あたしたちよりもずっとずっと年上なのに。
庇護欲をかき立てられるその姿を見ながら、あたしは思った。
恩返しだと言いながら、人間であるあたしたちをずっと助けてくれるメルさん。潮君の愛した町を知りたいと言ったメルさん。
もしかすると、メルさんも人間を愛したかったのかな。潮君の溺愛した女の子を、自分も愛したいと思っていたんだろうか。
絞り出した声をかき消すように、大きな歓声が聞こえてきた。一丸になったかけ声に釣られて、大きな神輿が奥からやってくる。あれが、我聞さんがずっと担いでいた神輿だ。
「記憶なぞ、思い出なぞ、残されたものが縋る夢に過ぎまい。死んでから価値が生まれるものなどあって何になる」
「知り合いが……先日亡くなったお爺さんが言っていました。自分が死んだ後は、笑って自分のことを思い出してほしいって」
神輿を目で追いながら、口が勝手に喋っていた。
「その人は災害で自分以外の家族を亡くして、ずっと落ち込んでいました。生き残った自分を責めて、自死を考えたこともあったそうです」
これはメルさんに関係のない話だ。こんなのなんの慰めにもならない。死者は死者の、生者は生者の祈りを持っている。悲しみで隔たれたそれらは、決して混じり合わない。
「でも、自分が死んだら、もう家族を憶えている人はいないから、生きることを選んだそうです。そうしないと、家族との思い出が、悲しいまま終わってしまうから」
自責という重い衣に潰されそうになった我聞さんは、ある時、それら一枚一枚が大切な思い出であることに気が付いた。
我聞さんは、それを脱ぎ捨てることも、身に纏ったまま川に沈むこともできなかったらしい。
「今まで積み重ねた記憶を、思い出を、墨で塗り潰すような気がして、できなかったそうです」
「……重いな」
「長い時間を生きるメルさんにとっては、甲冑も同然でしょう」
メルさんはもっと身軽で、自由な人かと思っていた。けれど、本当は、あたしが思っているより少し不器用な人なのかもしれない。
メルさんの膨大な、大切な衣。けれど、海で甲冑を着けていたら沈んでしまう。
それでも、脱ぎ捨てることも、一緒に沈むこともできずに、生きることを強いられる。
前を向いて生きると言えば聞こえはいいけれど、そう言ってしまえば一種の呪いだ。選ぶなんて言い方は生ぬるいかもしれない。
油断すれば、暗い水底に落ちるのを知りながら、みんな笑顔を浮かべている。
「長年付き合いのあったあたしたちにも、自分と同じ思いをさせたくなかったんだと思います」
あたしは、兄さんを見た。
「こんな老いぼれのことはすぐに忘れろ!と言っても聞かんだろうから、自分のことは笑って思い出せって。悲しい記憶のまま蓋を閉じてくれるな、と」
それはなんて辛い呪い。そして、背中を押す祈り。
きっと、あの時あたしを呼び出した我聞さんは、もう自分が長くないことを知っていたんだろう。
だから、兄さんがこれ以上自分を責めないように、あたしに伝言なんかを残した。
我聞さんと過ごした10年間は、きっと兄さんが悲しみに沈むことを許さない。
身勝手かもしれないけど、潮君も、メルさんとあやめさんが憎み合うような仲になることはきっと望んでいない。あたしの知ってる潮君なら。
「今のメルさんを見たら、潮君はなんて言うんでしょう」
メルさんが、あからさまに顔を顰めた。答えはメルさんの記憶の中だけに存在する。
逆光で兄さんの顔は見えない。頭の上を、神輿の影が通り過ぎて行く。
先に反応したのは、メルさんだった。
「そううまく割り切れないあたり、儂もまだまだ若造ということじゃな」
「そのお爺さんも、仏頂面で家族のこと話してました。自分は笑顔で思い出してくれって言ってたのに」
「なんじゃあ、そりゃ」
呆れた声を出したメルさんは、少しだけ肩の力を抜いた。言ってる本人も、有言実行できていないんだから、うまく話がまとまらないものだと思う。
けれど、我聞さんは今頃、本物の家族に会っている頃だろう。相変わらず仏頂面なんだろうか。それとも。
悲しみはひとりひとりの持ち物で、それを他の人がどうこうできるわけじゃない。痛みを理屈で緩和できるなら、あたしの兄さんはこんな海に飛び込む10秒前のような顔で生きてこなくてもよかったはずだ。
けれど、積み重ねた記憶と時間は、どこかで死者と生者の願いをうまく昇華してくれるのかもしれない。
「まあ、僕、我聞さんがにこにこしてるのなんて見たことなかったですけどね」
空気を読まない真之介さんが、脱力したメルさんを抱え直す。
「メルさん、たった数日じゃ潮さんが見ていたものなんてわからなかったでしょう?どうですか、しばらくここに住んでみると言うのは?」
「同胞が喰われたすぐに、わざわざ人間の側で住めと?」
「なら、寂しくなったらまた来てくださいよ。それまでにまた潮さんの残したもの探しておきますから。それでまた、僕に色んな話を聞かせてください。がんばって長生きしますから。ね、鈴ちゃん」
無神経で、自分本位で、気ままな笑顔に呆れながら、あたしも釣られて笑っていた。
メルさんは真之介さんに応えない。
正直、人間不信に陥っても仕方が無いと思う。
けれど、メルさんは、真之介さんの背中に身を任せたまま、じっとこちらを見つめていた。
神輿が鳥居を潜り、歓声が上がった。
「ああ、よく見えるわ」
雨の簾が落ち始めても、メルさんはその視線を逸らさなかった。
お祭り騒ぎは、雨が続いても衰えず……というわけにも行かず、終盤に差し迫っていた祭りは、あれからすぐに終わってしまった。
結局、なんのお土産も見つけられなかったけど、真之介さんが一方的に約束を取り付けてくれたから、まだ機会は訪れる……と思っていていいだろう。
川沿いに帰って行くふたりを見送った後、あたしたちは祭りの片付けに追われていた。
雲行きが怪しかったとはいえど、予想以上の豪雨にあたふたしている人たちに、兄さんが手を貸さないわけがなかった。
感傷に浸る間もなく、ずぶ濡れで走り回っていたあたしは、働き者の兄さんがぽつんと佇んでいるのを見て立ち止まる。
「兄さん、どうしたの?」
兄さんは、空っぽになった屋台の前に立っていた。
兄さんの視線の先には、土で汚れた棒きれ。周りには粉粉になった薄い膜がいくつも散らばっている。
雨で落ちた前髪のせいで表情はわからない。薄い唇が動いたので、耳を寄せた。
「昔、鈴が産まれる前、ぼくも母さんに飴細工を買ってもらったんだ」
長い指先が棒を摘まむ。踏みつけられたそれは何の形をしていたのか、もうわからない。けれど、兄さんはその正体を知っていた。
「魚だ。魚はぐんぐん泳げて、どこまでも行けるからって、ぼくが自分で選んだ。母さんは、それを聞いて、笑って頷いてくれたんだ」
忘れ去られた鱗を取り戻すように、薄い飴を手のひらに乗せる。
「……どうして忘れていたんだろう」
薄い膜が壊れないように、優しくそれを包み込む。そして兄さんは、そのまま肩を振るわせて座り込んでしまった。
あたしたちを囲む水飛沫は、いつかの潮君の笑い声みたいに聞こえた。




