最終話. 生者の独白
兄さんはあやめさんを追って、家を出た。陽の光の下で憑き物が落ちたように晴れやかに笑う兄さんを、あたしたちは安心して見送ることができた。
あやめさんは、きっと兄さんを拒絶するだろう。会わせる顔がないって、逃げようとするかもしれない。だけど兄さんは追いかける。それが自分の望みだと知ったから。自分の鱗を取り戻したから。
「あれは恋って言っていいのかなぁ」
夜、寒さの増した囲炉裏の前で、あたしは呟く。守れなかったことへの後ろめたさ。赤い目を通して行っていた罪滅ぼし。それらがなくなって、兄さんがあやめさんを追う理由はなんだろう。
本人は、
「あやめさんと一緒に、世界を見てみたい」
って言ってたけど。
あれかな、昔自分を救ってくれた恩人だって言ってたから、一種の刷り込み?うちの兄は生まれたての雛だったのかもしれない。
いや、雛というよりも稚魚かも。贖罪のためにずっと誰かに尽くしてきた兄は、ようやく自分のために泳ぎだしたんだ。
泳ぎ始めた稚魚が思うのは、「ただ泳ぎたい」それだけかもしれない。それとも、これからあのふたりの関係に名前がついていくのかな。
メルさんも、真之介さんの説得も虚しく海へと帰ってしまった。潮君のいないこの海に、また彼女は戻ってきてくれるかな。戻ってきてくれたらいいな。この土地での思い出が、喪失だけじゃ悲しいもん。あたしたちと過ごした記憶も、頭のほんの片隅にいてくれたらいいな。
兄さんとメルさんの旅路が、幸福なものであればいい。辛いこともあるだろうけど、幸せな時間が多かったらいいな。墨で塗り潰すのが惜しくなるように。
ああ、長年の胸のつかえがやっと取れた感じ。門出になった扉を抜けて外に出る。
月が綺麗な夜だった。
あたしは目を擦る。金を縁取る輪郭も、足下を攫う砂粒も、暗闇を含んだ海の色もはっきりと見える。なんだかおかしな感じ。
でもよかった。これなら手元がよく見える。
すっかり軽くなった肩をぐるりを回したあたしは、家から持ってきた握り鋏を取り出した。綺麗に洗って櫛を通した髪を、片手で引き寄せる。
そうして、時間の分だけ長くなった髪を切ろうとした時、あたしの手からひょいと鋏が取り上げられた。
「もう終わり?」
幼い子どもみたいな声が、問いかけてきた。
振りかえったあたしの髪を、手櫛で整えると、彼は首を傾げて続けた。
「あやめさんみたいに伸ばしてるんじゃなかったの?」
「もう必要ないかなって」
「もったいないよ、せっかく綺麗な髪なのに」
そう言って真之介さんは、砂場にそれを放り投げた。物は大切に扱って欲しい。
「兄さんもあやめさんと再会できた。潮君の最期も知れた。丁度良い機会じゃない」
「だからあやめさんの代わりをやめるの?」
「最初から、あたしは代わりでもなんでもないもん。ただ、羨ましかったかな。再会した二人は、まるで物語の中の主役みたいだった」
「祭りで、メルさんを説得しようとしていた鈴ちゃんは、主役然としていたよ」
あたしは首を振る。
「柄じゃないってわかった。もう命を狙われるのも、犬に噛まれるのもこりごり。物騒な話は、作り話で十分」
「あの時は、肝が冷えたんだからね」
「本当?」
月が大きいから、真之介さんの顔もよく見れる。真っ直ぐに見つめていると、大きなため息をついて額を小突かれた。
「本当だよ。本当に、心配した。嘘じゃない。心臓が痛いくらい速くなって、冷や汗がとまらなかった。恐怖って、ああいうのを言うんだね」
いつも笑顔しか浮かべていない表情筋が、情けなく不機嫌を露わにする。珍しい。というか初めて見た。
真之介さんの心臓に手を当ててみるけど、今はもういたって健康なものだった。残念。
ふと、視界に影が見える。それは真之介さんの手のひらを横切っていて、滴るそれは真っ白な砂浜を汚していた。
「真之介さん、手、切ってる」
「え?ああ、本当だ」
しばらくそれをじっと見つめた後、彼は手のひらから滴るそれを舐めた。噂とおとぎ話しか語らない唇が、真っ赤に染まる。命の糧になり、時には穢れとされるそれを、ぺろりと舌で舐め取った。
暗闇の中でも、あたしはその赤がはっきりと見えた。身体の奥から沸き上がる興奮を必死に抑えて、変な声が漏れないように唇を噛んだ。
「真っ赤だ」
いつか真之介さんに聞いた、西洋の生き物を思い出す。陽の光を嫌い、血を啜って生きる鬼の話を。所詮はおとぎ話だ。真之介さんは人間だし、今のところあたしは人魚しか見たことがない。
けれど、あたしも真之介さんも、日常から切り離された非日常が必要だった。例えば、夜中に彷徨う幽霊だったり、井戸から聞こえる怨嗟の声だったり、平和に尻尾が二つに分かれた猫だったり。
あとはそう、おかしな殺し方をする、連続殺人鬼。そうして、異国の血を持つ、消えてしまった美しい女性。
日常から切り離された事象を目の当たりにして、やっと自分の心が、自分の元へ帰ってきた気がする。不謹慎だと思いながらも、速くなる鼓動の音が、ぼんやりとした世界を賑やかにしてくれる。現実ではあり得ない光景が、視界に彩りを与えてくれる。あたしたちは、そういう質だった。
視界が、薄い膜で覆われたあの日から。
「あたしは兄さんに期待してた。兄さんなら、きっとあやめさんを見つけてくれるはずだって。その通りだった。本当は、潮君とももう一度会いたかったけど。それに、兄さんを心配してたのも本当だよ」
冷たい夜風が胸を通り抜けていく感覚は、きっと寂しさだ。
「兄さんは、自分の意志で動いて、あやめさんを見つけた。10年越しの感動に再会だよ」
たくさんの死を目の当たりにして、あたしも真之介さんも、生きている基準がどこかおかしくなってしまったらしい。潰された人と、倒れた家屋と、泥だらけの町に慣れた視界には、今の平和な日常がまるで夢のようで。どこか上から自分を見下ろしていて。怒っても、悲しんでも、喜んでも、あああたし怒ってるな、悲しんでるなぁって、ふっと我に返って。
現実感が、なくて。まるで、蛹の中から世界を見ているようで。
一枚何かが隔てられていると思ったら、人に話しかけるのも怖くなくなった。
確かに感情を感じていた過去、そして現実と架空の境が曖昧になる非日常だけが、あたしの膜を取り払ってくれた。
特に赤い瞳と、緑の混じった絹糸のような長い髪。その鮮やかな色が、ずっと頭から離れなくて。
「あたしね、ずっと怖かったの。ずっとずっと醒めない夢の中にいるようで、耐えきれなくなった自分が、何か取り返しのつかないことをするんじゃないかって考えたらおかしくなりそうだった」
構築されていく平和を前にして、あたしの心だけがあの日の置き去りだった。こんなのは嘘だと、無理やりその膜を破ろうとする日が来るんじゃないかとずっと怯えていた。
もしかしたら、人を殺していたあの人も似たような感覚だったのかもしれない。大切な人がいないまま回り続ける世界が、現実だと受け入れることができなかった。だから、同じ痛みを持つ仲間を増やしたかったのかも。なんて、考えてみる。
「でも、違ったの。あやめさんに再会できて、あたし怒っちゃった。わんわん泣いちゃった」
あたしの身体は、今もずっと土の下の埋まっているんだと思ってた。
だけど、あやめさんの顔を見た時、自分を覆っていた膜が弾けて、腹の奥から怒りと喜びが溢れ出すのを確かに感じた。
「あたし、ちゃんとここにいたみたい」
「当たり前だよ」
ぐいっと頬を抓られる。鉄さびの匂いが鼻につく。この痛みも、本物。
兄さんは表情が動かないからよく能面と言われる。だけど、内面はあたしとは比べもののならないくらい熱い感情を煮えたぎらせている。あやめさんもきっと同じ。
本能と感情で生きる二人が、どんな結末を迎えるのか、見届けたかった。もちろん、家族として心配してたっていうのも本当。
「君はここにいる。僕もここにいる。それを証明し続けるために、僕たちは一緒にいるんでしょ?」
血みどろになった手のひらが頬に触れた。べちょっとして気持ち悪い。
「もしまたどうしても不安になったら、僕を殺せばいい」
「いや極端」
「君がその時、どう感じるのか、僕は知りたいなぁ」
「知る前に死んじゃうでしょ!?絶対嫌だからね!物騒な話、あたし嫌いだって何度も言ってるでしょ!」
恍惚としている彼の頭を張り倒して、あたしは砂場を走った。お願いだから、本心とか言わないでよね。
「鈴ちゃんの怒った顔と困った顔、僕大好き」
「そうさせてるのは真之介さんでしょ」
「だからだよ」
性格が悪い。穏やかな顔で子どものような振る舞いをしているけれど、この人は善悪の概念が薄い。理解はしているけれど、感情が発露できるきっかけが見つかれば、それにとことん執着する。
「あたしは真之介さんに、綺麗な思い出のまま思い出してほしいの」
だからあたしは笑う。普通の女の子でいる。もとより、物語の主役になれるような特異な何かを持っているわけじゃないと知っているけど。
大げさに、くるりと砂浜を回る。まるで、繕いたての着物を見せびらかすみたいに。
空を切った手が、温かくなる。
「綺麗な思い出のままじゃ、足りない」
温もりが、唇に移った。端から見たら、なんて雰囲気のある光景だろう。世界の色彩が鮮やかになったからなのか、こんなに近くにいるからなのか、真之介さんの瞳にあたしの姿がくっきり見える。
あたしは物騒な話は嫌い。嫌いでなきゃいけない。みんなが幸せになれるおとぎ話が好き。だから、誰かを傷付ける前に、生きていることを思い出せて、本当によかった。
あやめさんに会えて、よかった。
「ねえ、今度一回、僕をぶってみて?」
「絶対に嫌。それより、手当先にしようよ。消毒してるけど、破傷風にでもなったら大変だよ」
好奇心に目を輝かせる彼は、平手一本で満足してくれるのかな。いや、絶対しないけど。変な性癖を開拓されるのは御免被りたい。
この町では多くの人が大切な人を喪っている。自分が死ねばよかったと嘆く声も何度も聞いた。でも、それは自分が生きているって証明にもならない?
だから、身を引き裂くような痛みが、内臓を燃やされるような怒りが、きっと生を実感させてくれると長いこと信じていた。
もしくは完全な非日常に身を置いてしまえば、楽になれると思っていた。
でも、そのどちらでもなくても、あたしはここにいると実感できた。
「あのね、怪我が治ったら、やっぱりあたしの髪を切ってくれる?」
「本当にいいの?」
「いいの」
非日常に憧れなくても、あたしはここに生きている。それに、もう兄さんに、あやめさんを連想させなくてもいい。あたしとあやめさんは全然違うから、兄さんは微塵も気づかなかったかもしれないけど。
だけど、生々しい苦悩を浮かべる兄さんを前にして、後ろめたい悦びと罪悪感に浸る時間は、もういらない。
「日記を書く時に邪魔でしょ」
花火のように儚い感情は、きっと明日には薄れてしまう。きっとこれからも、現実と非日常の境に縋る日がくる。
だから書き記そう。あたしが何を感じたのかを。あたしが生きた印を。真之介さんみたいに。
月明かりの下で、広い砂浜にいるもうひとりの同士の姿を見る。
「今回の出来事は、濃密すぎて紙が足りなくなりそうだなぁ」
「そのうち、本を出してもいいんじゃない?この土地の伝説をまとめた本とか」
うちのご先祖様は言った。人魚を見かけたら親切にしてあげなさい。彼らは人と同じ心を持っているからって。
幼い頃からおとぎ話のような生活に慣れ親しんだうちの家が特殊なだけで、人魚を物珍しいものとして認識している人がほとんどだろう。
だから、知ってもらえるといいかもしれない。人魚がどんな存在なのか。
もちろん、あたしたちの子どもにも語り継いでいこう。積み重ねた物語が、誰かの希望になるって信じて。
「それでたくさんの人に潮君のことを知ってもらうの」
この土地にいた美しい人魚と女の子の物語が、永遠に誰かの心残るように。




