8.彼の残響
滑落した男はかろうじて生きていた。
とはいえ、手足は折れ曲がり、本人は気絶していて、意識を取り戻しても起き上がれる様子じゃなかった。というわけで、倒壊した家から縄なり茅なり縛れるものを探していたわけなんだけど、その途中で変なもの見つけた。
落ち葉の降り積もった地面の下から、聞き覚えのある犬の鳴き声(三乗)が漏れている。
不思議に思って近づこうとするあたしの手を、兄さんが掴んだ。
「また襲われたらどうする」
「あれって、あの男の犬たち?なんであんなところにいるの?ていうか、なにあれ」
「元はご遺体を埋めるために掘られた穴だと思う。落ち葉が集まって、落とし穴みたいになってた」
そもそも、どうして秘密基地に向かった兄さんたちが、あの場に戻ってきたのか。その答えはすぐに返ってきた。
「結論から言うと、基地は奴らのねぐらにされてた。それで、ついた途端、ぼくと父さんは犬たちに追いかけられた。走り回ってるうちに、ぼくは坂から転げ落ちたんだ」
お社村の一部は、山の斜面を削って崖になっている。だから村と山道はかなりの高低差がある。村を横切る崖の先は、山頂に続いている。兄さんも男も、山頂を目指すうちに転がり落ちたんだろう。
「よく無事だったね」
「落ちる時に飛びついてきた犬が、頭を守ってくれたから」
どうやら兄さんの頭部は、地上でも奇跡の吸引力を発揮したらしい。鳥の糞とかくらげとかばっかりかと思ったら、ここに来て驚きの真価が再発見された。
笑いそうになるのを必死に抑えながら、続きを促した。
「そ、それで?」
「逃げ回ってる時に墓に躓いて、慌てて飛んだら真後ろが落とし穴だった」
「そのまま走ってたら、一緒に穴に落ちてたんだね」
メルさん。メルさんは兄さんが何か策を講じたって言ってたけど、相変わらずの行き当たりばったりだったよ。そして、やっぱりこの兄は何か憑いてるよ……。神か仏の類いが。
「あちこちに穴が開いてるから気をつけて。堀かけの穴とか、掘り返された穴とかあちこちにあるから」
「そういえば、村の近くのお墓も掘り返されてたみたい。……真之介さんがわざわざ頭蓋骨持ってきて教えてくれたの」
「頭蓋骨」
「呼びました?」
頭蓋骨は呼んでない。そして、やっぱり抱えてくるんじゃない。
頭蓋骨を持って現れた義弟から、兄さんは距離を取った。気にした様子もなく、真之介さんはまじまじと手に取った頭蓋骨を眺めている。
「大方、あの犬たちが掘り起こしたんだと思うんだけど……」
「どうしたの、歯切れが悪いね。とりあえず、そのお骨は元にあった場所に戻してこよう?ね?」
「妙なんだよね。こっちのお骨は服を着てるのに、あっちのお骨は骨だけなんだよ」
聞いちゃいない。
「わざわざ服を脱がせて埋葬するとは思えない。風化したとしても、こっちのご遺体も真っ裸じゃないとおかしいし。もう透け透けだけど」
透け透けになったご遺体が気になって、話の内容が入ってこない。
「ええと、つまり何?この村とあの村では、ご遺体の状況が違うってことだよね。それがどうしての?」
「わからない」
「わからないのね」
とりあえず、なんとなく気になってみたので口にしただけらしい。うちの旦那、そういうとこある。
「それで、これからどうする?」
「役人のところへ犯人を連れて行こうか。怪我の手当もしてもらわないといけない」
「なら、真之介さん。父さんと一緒にあの人を連れて行ってくれる?あたしと兄さんは寄るところがあるから」
「いいけどあの夫婦は?」
「あたしたちと一緒に後から降りてもらうよ。一緒に連れて行ったら犯人を殺しかねないでしょ」
「確かにその方が良さそうだね。メルさんと旦那さん、二人を担いで降りるのは大変だろうから、後から迎えに行くよ」
確かに歩けない人魚とご遺体を、あたしたちだけで担いで山を降りるのは難しいかもしれない。
お言葉に甘えて真之介さんと父さんを送り出す。あたしたちが話し込んでいる間、あやめさんはずっと待っていてくれた。
どう切り出そうか迷っているうちに、あやめさんの方が先に口を開いた。
「とりあえず、あの人魚と一緒に村へ来てくれる?」
絞り出したような小さな声だった。犯人を追い詰めた時と打って変わって、今のあやめさんは外見通りの少女に見えた。
「話してくれるんですか?」
「そうしないと、ずっと追いかけてくるんでしょ」
苦笑した後、あやめさんは俯いた。
「中途半端に引き留めるくらいなら、全部話してからここを出るよ」
そうして深く息を吐く彼女は、いつ拒絶されても大丈夫なように準備を整えているみたいだった。
穴の中で藻掻く犬は後々お役人様に任せることにして、あたしたちは村の方へと向かった。
夫婦をあやめさんの家の中で寝かせて、4人で例の秘密基地へと向かう。
兄さんに背負われたメルさんは、始終あやめさんと睨み付けていた。
やがて辿り着いた秘密基地は、悪い意味で想像とは違っていた。草木の生い茂る地面には犬の糞と残飯が溢れ、異臭が辺りに充満している。丁寧な作りをした小屋の中には、皮のような薄い布団と、古びた竿が立てかけられていた。
「数か月前に戻ってきたら、こうなってたの」
苦々しい顔で教えてくれる。
鱗が乾きつつあるメルさんに、川で休んでもらおうと思っていたけど、メルさんは「淡水よりも海水が良い」と言った。石に座らせたメルさんに瓢箪を渡す。中には、家から汲んできた海水が入っている。
海水を浴びて鱗が虹の輝きを取り戻すと、メルさんは改めてあやめさんを見た。
「さて、ここまで儂を連れてきた以上、言わなければならんことがあるはずだぞ」
「もちろん、言うつもりです。ですが、どんな経緯があっても、あなたが納得する理由にはならないと思いますよ」
「そんなのは承知しておる。経緯はどうあれ結果は同じ。儂はまた旧友をひとり亡くしたのだ。儂はお主を許すつもりはない」
海を思わせる瞳から剣呑さは消えない。地上にいても、無条件で他の存在を従わせる圧があった。
「じゃが、儂はそこの一家に恩がある。カズマが儂にウシオの最期を訊けと言った。何を想って、奴は死んでいったのか」
「それだけのために、憎いはずの私に着いてきてくれたんですか?あなたも、潮も、本当にお人好しですね」
「煽っておるのか」
あやめさんは首を振った。睨み付けてくるメルさんを、和やかな表情で見下ろしている。
「潮も、そうでした。災害が起きた後も、私の側にずっといてくれた。私も、潮と離れたくなかった。でも、後悔しているんです。海に続く道がなくなる前に、潮だけでも海に帰ってもらえばよかったって」
あやめさんは唇を噛んだ。
「そうすれば、潮は助かった。ここの村人たちに目をつけられることも、生きたまま肉を裂かれることもなかった」
「じゃが、お主もウシオの肉を食ったのだろう?その村人たちと同じではないか」
「だって、許せなかったんです」
薄暗くなる森の中で、苛烈な炎が燃え上がった。
「何を失ってもいい。潮が、あの村の人間たちに汚されることだけは、耐えられなかった」
泥で汚れたあやめさんの足が、畑があったであろう地面を踏みしめた。
「最初、私は潮と一緒に死ぬつもりでした。でも、潮は言ったんです。まだ死にたくないって。私のそばにいたいって」
快活な声が、そう嘆く姿を想像した。あの潮君でも、死を目前にした恐怖に怯えていたんだ。
ぎゅっと手のひらを握りしめたあやめさんは、顔を歪めて、泣きそうな顔をした。
「そう言われて気づいたんです。このまま死んだら、潮をひとりぼっちにしてしまうって。私ひとりの願いだけならよかった。でも、潮が私といることを望んでくれるなら、私は何を犠牲にしても潮のそばにいたかった。それこそ永遠に」
「だから潮の肉を喰ったのか。……いや、違うな。ここの村人も含めて、鬼のように貪ったのだな」
あたしと兄さんはメルさんを見た。
潮さんだけじゃなくて、村人も喰ったって……。
言葉を失うあたしたちの前で、あやめさんはゆっくりと頷いた。
「例え人魚の肉を食べても、死なないわけじゃないんでしょう。潮を食べても、その後に衰弱して死ぬわけにはいきませんでした」
真之介さんの言葉を思い出す。あやめさんの村のご遺体は、服を着ておらず、裸で埋葬されていたこと。
あたしは、込み上げる吐き気に、口を覆った。仕方のない状況だったと理解したくても、本能はそれを拒否していた。
「鬼と言われても、人間でなくなっても、誰に許されなくてもいい」
淡々と事実を述べていた声が、少しだけ幼い少女のような声色になった。
「お主のそれはひとりよがりだ」
すると、岩盤を叩く波のように激しい怒りを伴わせていたメルさんの声が、ふいに弱くなる。
「わかっています。でも、私は潮のそばにずっといたかった。ずっと潮のことを憶えていたかった。私を救ってくれた、優しい人魚のことを」
「お主の言葉が嘘でないとなぜ言い切れる」
乾いていく鱗に水をかけても、メルさんの顔色は悪くなるばかりで、姿勢はどんどん前屈みになっていく。見ていられなくて、あたしはメルさんの横に着いた。
「信じてもらうつもりで言っているつもりはありません。私も、一馬くんには恩があります。話す必要があると思ったから、話しただけです」
睨み付けるメルさんを見下ろして、あやめさんは続ける。労るような声で。
「恨むなら、恨んでください。殺したいほどに憎んでください」
「……っ恨むだけで殺せるなら、儂は同族を殺した奴らを今まで何人も葬ってきただろうな」
あたしの腕を軽く撫でて、メルさんは顔を上げた。深くため息をついて、作務衣を着た胸を撫でる。
「ただ、行き場のない恨みが、また増えるだけだ。そしてそれは、お主を殺したところで変わらぬ」
乾いた土がこびりついた尾ひれが、力なく地面に投げ出される。荒らされた畑を見下ろして、メルさんは顔を覆った。
「儂の知るウシオは、もういないのだから」
ゆっくりと吐き出されたその言葉が、あたしの鼓膜を貫いて、内側から胸をぐっと押した。
辛くなるような事実が散らばっていた胸が熱くなり、言葉を探す間もなく涙が溢れ出した。
潮君、本当にもういないんだ。
しかも潮君を食べたのは、あやめさんなんだ。でも、そもそも潮君を殺そうとしたのは、ここの村の人だ。なら、潮君の最期の願いを叶えようとしているあやめさんは、本当に許されないことをしたのかな。
少なくとも、潮君を食べなければ、あたしたちはこうしてあやめさんと再会することはできなかっただろう。
あたしたちの再会は潮君の死の上に成り立っている。それがとても悲しくて、やりきれない。あたしは、確かにそう思っていた。
メルさんも同じ気持ちなのかもしれない。
潮君は言った。「誰かに忘れられた時、本当の意味で死んでしまう」んだって。あやめさんは、永遠を手に入れることで、それを避けようとしている。潮君の本望を叶えるのも、潮君を食べたのもあやめさん。メルさんにとっては、複雑な気持ちでいっぱいなんだろうな。
きっとそれは、あやめさん自身も自覚している。だから、頑なにあたしたちを拒絶しようとするんだ。
かける言葉が見つからない。潮君を失ったことは悲しい。でも、あやめさんに会えてうれしい気持ちも、本当。潮君と人の肉を食べていたことは驚いた。
それらをひっくるめて、まるごとあの人に渡せたらいいのに。
ろくなことも言えないまま、ただ溢れる涙を拭っていると、からからんと大きな音が響いた。
兄さんが、桶を蹴飛ばしていた。
「ぼくたちがあなたを恨んだら、満足してくれますか?」
ぎゅっと胸を掴んだ兄さんは、顔を上げてあやめさんを見た。普段は動かない顔に、溢れんばかりの苦しみを浮かべて、慣れない大声を出した。
「あなたを恨んでいるのは、他でもない、あなた自身ですよね?でも、ぼくは違う。確かに潮さんを喪ったことや、あなたが行った行為を考えれば、手放しで喜ぶことは難しいです。でもっ」
ぬかるんだ地面を駆けて、兄さんは飛び出した。たった数歩の歩みが、あたしには大きな前進のように見えた。
傷だらけの腕を掴んだ兄さんは、怒りすら浮かべた顔であやめさんを睨み付けた。
「ぼくは……っ、あなたが生きていてくれて嬉しい!」
あやめさんが、目を大きく開いて、貝殻のような唇を震わせた。
「ずっと、ずっと会いたかったんです!あなたがどんな人生を送ってきたとしても、今、生きてあなたと会えたことが嬉しいんです」
「おかしいよ。だって、大昔に、たった数日会っただけの人間でしょ……?」
「だって、ぼくはあやめさんの役に立てたことが、本当に嬉しかったんです。それは今でも変わらない、ぼくの大切な思い出なんです。あやめさんにとっては、ささいなことかもしれないですが」
そう言って兄さんは、苦笑いを浮かべた。
「あなたを恨んだら、ぼくの大切な思い出も、きっと許せなくなってしまうんでしょうね。ぼくは、そんなことしたくないです」
「だから、私を恨まないって言うの?」
「恨まれることで許されようとする気持ちは、ぼくにもわかります」
あやめさんの身体が震えた。
そう言われて気が付いた。兄さんもあやめさんも、自分のせいで大切な人を喪ったと思っているんだって。だから自分自身が許せなくて、自分を傷付けるような言動を取ろうとする。
自分のせいで潮君を喪ったと言うあやめさんの中に、兄さんは自分の姿を写していた。
あたしは、兄さんがそのことに気がつけたことに、純粋に驚いていた。それとも、同じ痛みを持っているからこそ、気がつくことができたのかな。
「あやめさん、ぼくはあなたに謝らなければならないことがあります」
前髪の帳もなく、直に見つめてくる黒い瞳。やめさんは、なす術もなく話を聞くしかない。
「ぼくはあなたを利用していました」
「……利用?心当たりはないけど」
「いいえ、ぼくはあなたの目を通して、母さんを亡くした日のことを思い出していました。あやめさんの赤い目を見ていると、ぼくはぼくのやったことを忘れないでいられたから」
「それって、火事のこと?」
兄さんがゆっくりと頷いた。
「でも、もうやめます。あなたと過ごした日々は、決して悲しいものではなかったから」
「でも、私が終わらせたんだよ」
「終わっていません。また始めるんです」
あたしと兄さんがあやめさんを恨めば、あたしたちの楽しかった日々は終わる。けれど、兄さんはそうしなかった。
たとえあやめさんが認めなくても、兄さん自身がそう決めたのなら、決して終わらない。思い出も記憶も感情も、その人自身の持ち物だから。
水底から見上げた水面のように、兄さんの瞳がゆらゆら揺れるのを見た。改めてあやめさんに向きあった兄さんに、その赤い瞳はどんな感情を抱かせるんだろう。
「潮さんが、あやめさんのことを大切に想っていたことを、ぼくは憶えています。あの人は決して、あなたを恨みはしない。だからぼくは、潮さんの大好きだったあやめさんに、笑顔でいてほしいんです」
あやめさんが、唇をぎゅっと噛みしめて、とうとう兄さんから目を逸らした。自由な左手で、長持を抱き寄せる。頬を擦りつけて、縋り付いているように見えた。
「ぼくの知ってる潮さんは、あやめさんに恨まれるような生き方を望むような人じゃありませんでした」
いない人は何も語れない。でも、潮君は雄弁に語っていた。自分の生き様と、大切なあやめさんのことを。
「……知ってる」
そして、それを否定することだけは、あやめさんにもできなかった。
彼女こそが、潮君の言葉を誰よりも聞いていたはずだから。潮君を憶えていると言った彼女は、絶対に潮君の生き方を否定なんてできやしないんだ。
目元を拭ったあやめさんは、長持を横たえて、蓋を開けた。そこには、子どもの大きさくらいの、大きな蛹が横たわっていた。斑な虹模様が、内側の振動で混ざり合っている。鼓動と同じ間隔を開けて響く震動は、それが生き物であることの証だった。
菱形のそれを抱えて、あやめさんは川へと進む。
「ここで過ごした毎日を忘れたことなんてない。だから、思い出のままの綺麗な場所を、取り戻したかったの……」
男の思惑すら汚せなかった綺麗な水が、とめどなく山を下っていく。夕日も届かない暗がりの中、水面で踊るように虹が揺らめいた。




