6.彼と彼女の約束
ふて腐れたままのメルさんを乗せて、籠は進む。あたしは真之介さんに背負われたまま、先頭を行く兄さんを眺めていた。
壊滅した村を目指す。いつだったか、潮君が兄さんに言っていた。
『村の近くに、俺とアヤメの秘密基地があるんだ。川が側にあるから、寝そべりながらでもあいつに色々教えてやれるんだよ。まあ、最近はなんでもひとりでやっちまうけどな』
何度か山に入ってあやめさんを探していた兄さんは、秘密基地を見つけられたんだろうか。
『海も落ち着くけどよ、あの川辺であいつが鍬振ってる音聞く時が、一番帰ってきたって感じがするんだよなぁ』
潮君にとっては、我が家同然だったその場所を目指す。元気に動き回っていた潮君がもういないなんて、信じられなかった。
あたしの手を掴んで、泳ぎ方を教えてくれた潮君に、上手くなったところを見て欲しかったのに。
彼はもう、誰かの思い出の中にしか存在しないのだ。
倒壊した木々が、森の隙間から見え始める。森が開けて、寒々しい空の下に人のいない村の残骸が広がる。町が村を確認しに来た時には、あちこちに死体が横たわっていたみたいだけど、今は何もない。死体の代わりに横たわる家屋が、蔦に浸食されているだけだ。
ざくざくと足音が大きく聞こえる。蝋燭みたいに、人の残り香だけが漂う村で生きている知人の痕跡を探す。
「おい、あれ」
父さんが村の端を指した。ほとんどの家屋が緑で覆われている中で、明らかに手入れされている小屋があった。物置としか言いようのない小さな小屋。
軒下に吊っている肉と魚は、まだ食べられそうで、小屋の横には小さな畑が耕されている。明らかに誰かが住んでいる。
「ごめんください」
父さんが扉を叩く。返事はない。無礼を承知で扉を開いても、中には誰もいなかった。
土間の端に、茅を敷いた寝床と農具がいくつか立てかけられている。とても人が生活しているとは思えない。囲炉裏はないけれど、畑の横に黒ずんだ土がある。真新しい薪が積んであるところを見ても、誰かが住んでいるのは間違いない。
メルさんが不愉快そうに言った。
「ここはあの女と同じ匂いがする」
「じゃああやめさん、ここに住んでるの?」
それにしたってなんでこんなところに。薪も、到底冬を越せるような量じゃない。明らかに仮住まいと言った雰囲気だ。
「前にここに来た時は、畑も薪もなかった。こんな小綺麗な小屋があったら、覚えているはずだと思う。ここ最近、住み始めたんだ」
小屋を見渡した兄さんは、村の外に目を移した。ここが住処なら、あやめさんが戻ってきてもおかしくはない。
それとも、あやめさんは秘密基地にいるんだろうか。潮君との思い出が詰まる場所に。
「ねえねえ鈴ちゃん、何か唸り声みたいなのが聞こえない?」
「う、嬉しそうにそんな怖いこと言わないで」
真之介さんは霊感がないので、幽霊じゃないと信じたい。でも得体の知れないものが迫っている事実は変わらない。
耳を澄ますと確かに、遠くの方から獣の唸り声のようなものが聞こえてきた。とりあえず、動物のものでよかった。
しばらくそのままでいると、あおーんと遠吠えが山に響いた。
あおーん
あおーん
あおーん……
「いや、多過ぎでしょ。何匹いるの」
つられて吠えた犬の数は3匹を超えている。噛まれたばかりの足の痛みを思い出して、顔を顰めた。
「あっちには何がある?」
「あっちは……潮さんたちが住んでいた場所です」
父さんに返事をしながら、兄さんは眉を潜める。そうして籠に積んでいた鎌を取り出すと、あたしの方へ振り向いた。
「真之介さん、鈴を頼みます。ぼくはこの先の様子を見てきます」
「ひとりで行く気なの、兄さん。あの犬がいるなら、その鎌じゃ太刀打ちできないでしょ」
「護身用だよ。様子を見てすぐに帰ってくる」
「危険すぎる。さっきの凶暴な犬が何匹もいるかもしれないんだよ。第一兄さん、潜ること以外は運動苦手でしょ」
そう言っても、兄さんの顔はもう行くとしか書いていなくて、足を怪我したことが本当に悔やまれた。行っても、たいして役には立てないだろうけど。
「それなら俺が着いて行こう。ただし、危なくなったらすぐに帰ってくる。暴走しないように見ててやるから、安心して待ってろ」
あたしの頭を撫でた父さんは、その後兄さんの背中をばしばし叩きながら一緒に村を出て行った。
村に残ったのは、あたしと真之介さんとメルさん。何か責任を感じているのか、真之介さんが農具の前で「これだったら頭ぐらいはかち割れるかな……」とかぶつぶつ呟いている。農具は武器じゃない。お願いだから適切な使い方をしてほしい。というか、この先も適切な使い方だけができる環境であってほしい。
閑散とした村の中で、ただ家族の帰りを待つのは心細い。実際に襲われたから余計にそう思うんだろう。
日の光がすぐに遮られるせいか、山の風は町のものよりうんと冷たい。あの犬たちが襲ってくることも考えて、小屋の中で待たせて貰うことにした。
小屋の中を見渡している内に、茅の横に小さな麻袋が転がっているのが目につく。緩く開いた口の隙間から、蛤の貝殻がふたつ入っているのが見えた。
「あれ?これって……」
同じ柄を持つ貝殻は、元々ひとつの貝殻だ。穴を開けて首飾りにされたそれにあたしは見覚えがあった。確か、あやめさんが帰る時に、あたしが渡したものだ。
あの頃はまだ幼くて、真珠を産んだ貝殻だなんて言ってしまったけど。
そうか、まだ持っててくれたんだ。ひとつしか渡した覚えのない貝殻が、揃ってふたつ入っているということは、もうひとつは潮君に上げたお揃いの貝殻だ。それを、あやめさんがまとめて持っているということは。
本当に、潮君は死んでしまったということなんだろうか。
「メルさん、人魚は死んだらどうなるんですか?というか、人魚って死なないんじゃないんですか?」
「我らに死という概念はない。人よりずっと細胞の再生が早いからの。損傷した細胞は、いつか同じ形へと戻る」
「それなら、潮君は死んでないってことになるんじゃ……」
メルさんは口をぎゅっと閉じて、目を伏せた。次に口を開くまでの間に、適切な言葉を探しているみたいだった。
「細胞の損傷が激しければ、それまでの記憶は失われる。同じ形に戻ると言っても、損傷した箇所を補うために、以前よりも若返る場合もある。我らは確かに再生を繰り返す。儂らにとって、何を持って死とするかは定義付けが難しい。じゃが、ウシオの言葉を借りるなら」
「借りるなら?」
「誰かに完全に忘れさられた時。それこそが、奴にとっての死だったのかもしれんの」
人魚は長寿な分、見送られるより見送る方が圧倒的に多いのだろう。同族と巡り会えない彼らがどこかで大きな怪我をした場合、誰かとの繋がりを保っていなければ、以前の自分を覚えている人は誰もいないという状況になるのかもしれない。
誰かに覚えていてほしくても、人と人魚では人生も歩幅が違いすぎる。
「かつて奴は、儂に言った。馬鹿をする俺をずっと覚えていてくれ、と。儂は心底、奴が馬鹿じゃと思うた。人と関わってろくなことになどならないと知っておるじゃろうに」
「メルさんも、あたしたちを助けてくれてるじゃないですか」
「お主らには助けてもらった恩がある。それに、元々儂はウシオに会いにここまで来たのじゃ。なりゆきであろう」
といいつつ、真之介さんがねだれば津々浦々の不思議な話をしてあげるのだろうし、無防備な地上で身柄をあたしたちに預けてくれているのだから、それなりに信頼されていると思ってもいいだろう。人魚の生態にしたって、そうぺらぺらと喋っていいことじゃないはずだ。
誰も彼も信用はしないけど、情に厚くて義理堅い人なのかもしれない。
「意外と奴は寂しがり屋じゃからの。ウシオは人と関わることでしか、生きていけなかったのだろうな。それを自覚しておったから、儂にあんなことを言うたのかもしれん」
表面的にしか見えていなかった潮君の奥底が、少しだけ垣間見える。あれだけ人好きな笑顔を見せる人だ。凪いだ海よりも、人の行き交う浜辺の方がずっと良く似合う。そして、彼自身もそうありたいと思って行動していたんだろう。
自分がいつか喰われるかもしれなくても、人を信じることを選び続けた。メルさんにとっては、理屈の通らないことでも、潮君にとっては本能に近い衝動だった。
「結局、こんな結末か。さぞ、無念だったろうな」
心底失望したように、メルさんはため息をつく。それは、メルさん自身も、潮君の行く末に期待を抱いていたからじゃないだろうか。……言ったら怒りそうだから言わないけど。
「……あやめさんは、どうして潮君を食べちゃったんだろう」
「大方、飢饉の空腹に耐えかねたのではないか」
「でもいくらお腹が空いたからって、あやめさんが望んで潮君を食べたとは思えないんです」
「ウシオ自身が、俺を食べろとでも言ったとでも?娘を溺愛しておった奴が、生きるためとは言え自分を食べろとは言わんと思うがな」
10年前と容姿が変わっていなかったあやめさんの姿を思い出す。あの時、あやめさんは永遠を手に入れたと言っていた。
「人魚の肉を食べると、不老不死になるって言うのは、本当なんですね」
「不老はともかく、不死に関しては多少死ににくくなるだけだがの。どちらにせよ、人の枠を外れる行為なのは間違いない。人にも、人魚にもなれない。長い孤独が待ち受けているだけじゃ。最も、それがあの女の罰かと言われれば、まだまだ軽いものじゃと思うがな」
それなら、あやめさんは潮君さえも失った状況で、この10年ずっとひとりぼっちだったのか。
「鈴ちゃーん」
張り詰めていた神経が暢気な声でかき乱される。外から困惑した声で名前を呼ばれて、あたしは戸口へ近づいた。
「何、なにか見つけたの?」
家の中から頭だけ出して声の方を見る。
頭蓋骨を持った旦那が佇んでいたので、扉を閉めた。
「ちょ、開けてよ、鈴ちゃん!」
「この特殊性癖愛好家!墓荒らしだけはやめてって言ったでしょ!」
「違う違う、いくら僕でも墓荒らしはやらないよ!」
「だったらその手に持ってる頭蓋骨はなんなのよ!?」
「川辺で見つけたんだよっ」
「見つけたからって持って帰ってこないでよ、馬鹿!とりあえず、今すぐ元の場所に戻してきて!」
「そうしたいのはやまやまなんだけどさ、なんというか、無縁仏がそのまま掘り起こされてるみたいになってて、可哀想なことになってるんだよね」
置き去りにされていた遺体は、まとめて埋葬されたと聞いたことがある。それが掘り返されていたらしい。
……いや、だからって普通頭蓋骨拾ってこない。
「獣に掘り返されたみたいなんだよ。可哀想だから、埋め直してきてもいい?」
「それなら、兄さんたちが戻ってきてからの方がいいんじゃない?きっとあの犬たちが掘り返したんだよ」
いつまたあの犬が襲ってくるかもわからない。しかも一匹でないのなら、ひとりで埋め直しに行くのは危ない。だからって、頭蓋骨とひとつ屋根の下はちょっと遠慮したい気分だ。
「ねえ鈴ちゃーん」
「今度は何ー?」
「あやめさん帰ってきたよ」
それを聞いて、すぐに扉を開いた。何を暢気に言ってるんだ。
外に飛び出すと、頭蓋骨を抱えた真之介さんを見つめているあやめさんがいた。
「あやめさん!」
「鈴ちゃん……。うん、えっと、何してるの?」
歯切れが悪い。
家に勝手にいることじゃなくて、あなたの旦那らしき人は頭蓋骨を持って何をしているのか聞いているに違いない。
「私、あなたたちにすぐに山から降りてって言ったよね。一馬くんと信親さんは?」
「あやめさんを探しに行ったんですよ!」
「嘘でしょ!?鈴ちゃん、殺人鬼のこと知ってるんだよね?それなのに、どうして……」
「だからですよ!あやめさんが危ないから、……あと、ちゃんと説明してほしいから、兄さんはあなたを探しに行ったんです!」
あやめさんはあの大きな長持を持っていた。運悪く兄さんたちとはすれ違ってしまったらしい。
あたしたちの身を案じている彼女に、あたしは詰め寄った。
「あの災害の日からずっと、兄さんはあなたと潮君を探していたんです。それなのに、あんな簡単な言葉で納得できるわけないじゃないですか!潮君がいないなんて、あたしたちにはまだ信じられない。あたしたちから潮君を奪ったってどういうことですか?ちゃんとあたしたちに説明してください!」
少しでも負い目が、いや、情があるのなら、あなたに縛られ続けた兄さんに、ちゃんと説明してほしい。傷ついでばかりの兄さんが、また前を向いて歩けるように。
「教えてください。あの時、一体何があったんですか?」
太陽のような赤い瞳が、夜の藍を溶かしたように昏く影を落とす。細い指で唇をなぞったあやめさんは、形の良い眉をきゅっと潜めたまま俯いていた。
そして、あたしの言葉に返事をしたのは、あやめさんではなく、連なる獣の咆吼と、女性の金切り声だった。
押し寄せる夜闇に乗って、冷たい殺意が裾の隙間から入り込んでくる気がした。




