5.再会
足に杭を打たれて引き摺られた。もうそうとしか言い様がない。落ちている最中も、何か別の力に足を引っ張られて、その度に悲鳴が漏れた。
遮るものと言えば、木ばかりで、それも急斜面では、身体を甚振る障害物にしかならない。足の痛みに気を取られているあたしの代わりに、その痛みは全て兄さんが引き受けた。
そうして、やっと平地に転がり落ちたかと思うと、兄さんはすぐに飛び起きて、足下にいるそいつを追い払おうとした。
その背中を目で追う。あたしを引き摺り降ろしてきた憎い奴は、黒い犬だった。あたしは一瞬、そいつのことを熊かと思ってしまった。だって、そいつは飛び上がった時の上背が、兄さんと同じくらいあったから。
丸腰の兄さんに、そいつは全く怯まない。そいつが激しく身体を揺らす度、噛みつかれた足首が痛んだ。土を抉りながら、そいつを蹴り飛ばそうとする。でもなかなか離れてくれない。胴体を持って引き剥がそうとする兄さんを、間違って蹴ってしまう。
こんなところで野犬に殺されてたまるか!
「っいい加減にして!!」
近くにあった枝を放り投げると、運良く犬の鼻に当たった。仰け反った拍子に、足を引き抜いた……はいいけど、この後どうしよう!
荒削りの斜面を転がり落ちてきた身体は傷だらけで、喰いつかれた足はろくに動きそうにない。
兄さんもかろうじて立ってはいるけど、全身痣だらけになっているはずだ。もしかしたら骨を折っているかもしれない。抱えて貰っても逃げられる気がしない。
こっちは満身創痍だって言うのに、犬は鼻を攻撃されて激昂するばかり。気が弱まるどころか、今にも剥き出しの歯で襲ってきそうだ。
万事休す。あれだけ足手まといにならないって言ってたのに情けない。
それでも最後まで諦めたくなくて、あたしは目潰し程度にはならないかと近くに石を握りしめた。
刃を剥き出しにして、4足歩行の獣は土を踏みしめる。その足が少しでも動いたら、投げてやる。
と、石を握りしめるあたしの前に、人影がふたつ現れた。一人は、あたしを庇おうとして前に出てきた兄さん。
そして、兄さんと犬を分断するように、大きな長持が落下してきた。
長持を持ったまま落ちてきたその人は、突き刺さったそれを軸にして、長い足で犬を蹴り上げる。ひとつにまとめられた長い髪が、ふわりと宙に舞う。深い緑が混じった黒い髪に、あたしの心臓が跳ねた。
胴体を蹴られて勢いよく吹っ飛ばされた犬は、不本意だと言わんばかりに唸りながら、退散していった。
薄暗い森の中で、炎に似た煌めきが現れる。海に帰る前の太陽の色。それを両の目に閉じ込めたその人はあたしたちを見下ろして、言った。
「……大丈夫?」
あたしは、急激に身体から力が抜けていくのを感じた後に、沸き上がってくる感情のまま叫んでいた。
「だ、大丈夫?じゃないですよ!あやめさんの馬鹿!!!」
兄さんとあやめさんが、ぎょっと目を見開く。
「心配したのはこっちですよ!無事なら、なんで早く姿を見せてくれなかったんですか!?」
口が、考えるより先に喋り出す。
胸の奥がかっと熱く燃えて、無理矢理仕舞い込んでいた感情を引き釣り出されるような感覚がした。
何度も山を見上げていた兄さんの姿が浮かぶ。
「10年!10年ですよ!?兄さんが、どんな想いで生きてきたか……!あなたに会いたくて、ここまで登ってきたのに、大丈夫?大丈夫って……!この姿が無事に見えますか?ていうか、無事だったならなんで会いに来てくれなかったんですか、もおおおお!!!」
「鈴。鈴、落ち着け」
「え、あっ。鈴ちゃん!?」
「足、痛いし、足手まといになっちゃうし、あやめさん、人殺しにされてるし……っ」
痛む足で這って、おろおろとしているあやめさんの腕を掴んだ。手甲の隙間から、大きな傷跡が見える。それでも確かに手に温もりを感じる。
足、痛い。足手まといになるの、嫌だったのに。兄さんの代わりに、冷静にならなきゃって思ってたのに、いざ本人を目の前にして思い知る。
「あやめさん、生きてるうぅ!よがったぁぁ~!!」
言葉に出して初めて気づく。
あたしも、本当はこの人に会いたかったんだって。人殺しにされてるの、嫌だったんだって。
身体が震えて、視界がぼやける。あれ、おかしいな。
近づいてきたあやめさんに、冷たい手で頭を撫でられて、目元を拭われる。小さい時と同じように。
あ。あたし、泣いてたんだ。
「ごめんね。鈴ちゃん、一馬くん」
感動の対面は兄さんに譲ってあげるつもりだったのに。兄さんは、一歩下がって、あたしとあやめさんを見ていた。
滲む視界で振り返ると、兄さんは唇を噛みしめていた。何度も口を開け閉めして、吐き出す言葉を選んでいた。
その様を眺めていたあやめさんが、先に兄さんを呼んだ。思い出の中と少しも変わらない彼女は、とっくに兄さんに背を追い抜かれていた。
「一馬くん、私は――」
「あやめさん、ぼくは……」
10年煮詰めた想いが交錯しようとする中で、鋭い声が響いた。
「今すぐ我が同胞から離れろ、けだものめ」
聞くもの凍てつかせる声が、頭上から降ってくる。真之介さんに担がれたメルさんが、冷たい瞳で、あやめさんを睨み付けていた。坂道をゆっくりと降りてくる真之介さんと父さんは、緊迫した空気の中でほっと安堵の息をついていた。
「メルさん……?」
「人魚……」
メルさんは、あやめさんの隣にある長持を見た。あたしと兄さんに視線を巡らせて、ゆっくりと口を開く。
「そやつは肉喰いじゃ」
肉喰い。それは確か、人魚を食べた人間を指した言葉だったはず。
「え」
まさか。冷たい汗が、背中を伝う。凍り付いた手から指が離れ、あやめさんは胸の高さにもなる大きな長持を撫でた。
メルさんは、深く憎しみを沈めた目で、言い放つ。
「お主、ウシオを喰ったな」
「何かの間違いです!そんなの……っ」
声を上げたのは、兄さんだった。珍しく狼狽して、あやめさんとメルさんの間に立つ。
「あやめさんが、潮さんを食べるはずがありません!」
「一馬くん」
「だって、あやめさんは潮さんをとても大切に想っていました。それなのに、彼女が潮さんを食べるはずがない!」
「一馬くん」
必死の叫びに入る雑音は、紛れもなくあやめさん自身のもので、まだ言い募ろうとする兄さんの肩を、あやめさんは掴んだ。
「食べたの」
耳に入ってきたその言葉を、理解したくなかった。
兄さんが泣きそうな顔を浮かべた。とどめを刺すように、あやめさんは静かな声で続ける。
「その人の言うとおり。私は、潮を食べた」
10年前になんら変わらないその人は、以前会った時よりもずっと落ち着いた声でそう言った。
兄さんが、その場に崩れ落ちる。
「……どうして、ですか」
長持を抱え直したあやめさんは、まるで帳面に書き起こしていたように、すらすらと答えた。
「生きるためだよ。私は、どうしても永遠を手に入れなきゃいけなかったの」
「潮さんを食べてまでですか?」
「そう。でもだからこそ、」
あやめさんは、再開してから初めてくしゃりと苦しみを顔に出した。
「だからこそ、一馬くんたちには会えなかった。10年も待ってくれたのに、こんなことしか言えなくて、ごめんね」
迷いのない足取りで背を向けるあやめさんに、兄さんは手を伸ばした。あやめさんは、捨て猫を見るような目で兄さんを見下ろした。
「私は、あなたたちから潮を奪ったの。だから、憎んで。私のことは、もう忘れて」
忘れて、て。今更そんなこと言われても、納得できるわけないのに。だって、あたしも兄さんも、心の中にずっとあやめさんと潮君を置いていたのに。
やっと会えたその人は、それごと消せとあたしたちに言う。
楽しかった思い出を消せと。
「だから早くこの山から降りて」
「待ってください、あやめさん!」
兄さんが声を張り上げる。その声に足を止めることなく、あやめさんは獣道を駆け下りて行った。
急な斜面を一緒に降りようとしていた一馬くんを、父さんが止める。
身を捩りながら、兄さんが叫ぶ。
「あやめさん!ちゃんと説明してくれるまで、ぼくはこの山から降りませんから!10年、ぼくはあなたを探してたんです!今更、そんな言葉だけで、納得できるわけないでしょう!」
兄が、喉がすり切れるほどの声を上げているのを初めて聞いた。
その後ろ姿を、あたしは見ていることしかできない。怪我の処置をしてくれている真之介さんの横で、メルさんが苦々しい顔を浮かべていた。
一旦下山しようという父さんの提案は、あたしと兄さんに即座に却下された。
「あやめさんを、このままこの山に残しておくわけにはいかないよ」
犬に噛まれた足の傷に触れる。全身泥まみれでひどい有様だったけど、感動の再会のせいか痛みはまだ少ない。家に帰って気が抜けたら動けなくなる気がする。骨は折れてないみたいだけど、この足じゃ数週間はろくに動けないだろう。
だけど、兄さんが守ってくれたからこの程度で済んだ。もし、あたしひとりで滑落していたら、命を落としていた可能性だってある。
「ねえ、思ったんだけど……あたしの今の状況、この山で殺された人たちと似てない?」
両手を広げて、泥だらけの身体を見せる。手ぬぐいであたしの泥を拭っていた真之介さんは、声を上げた。
「確かに。これで、首が絞められた跡があれば一致するね」
「亡くなった人たちはみんな、足首に咬み跡があったんでしょ?それって、あたしがされたみたいに引き摺られて、その後に殺されたんじゃないの?」
「それなら、あの犬は犯人の犬ってことだね」
「つまり、犬に警戒されてたあやめさんは、犯人じゃないってことだよね!」
訴えかけると、兄さんの眉間が深くなった。
「あやめさんが犯人に狙われる可能性もあるってことか」
「どうでもいいじゃろう」
籠で寝そべったままのメルさんが、吐き捨てるように言った。
「あの女は肉喰いじゃ。多少の怪我を負ったくらいで死にゃあせん。八つ裂きにでもせん限りな。だいたい、あの女が犯人でなくとも、好き好んでこの山に入り浸っておったんじゃろう?今更、儂らが介入することでもあるまい」
「あやめさんは強いです。でもそんな強い人が、この状況を打破できないまま、何か困っているんだとしたら、ぼくは助けてあげたいです」
「儂は嫌じゃ」
身を縮めて、背中を向けるメルさんに、兄さんは近寄る。
「あの女はウシオの肉を喰った。同族を喰らう人間に、何かしてやる義理などない」
「メルさん、何か事情があったのかもしれません」
「その人間の都合に、儂らの命は弄ばれてきたのじゃ!過程がどうあれ、あの女が潮を喰った事実は変わらぬ」
重く深い息が、森の中に吐き出される。
「哀れな奴じゃ。愛していた娘に喰われるなど。どれだけ心を砕こうとも、結局最期は、家畜として死んでいったのではないか」
そこには一体、何百年分の重みが詰まっているんだろう。あたしたちの家訓なんておままごとに思えるような同族の死を、メルさんは何度も目にしてきたんだろう。
人魚たちは、家畜として狩られる恐怖を抱きながら、それでもあたしたちに心を開いてくれる。それと同じだけの心を返したいのに、欲に駆られて彼らを手段にする人たちもいる。
あれだけ潮君に愛されていたあやめさんが、その人たちと同じだなんて信じたくはなかった。
でも、反論さえも許さない怒りが、辺り一帯を満たしている。重圧が喉を締め上げる中で、兄さんが声を上げた。
「そうとは限らないじゃないですか。ぼくたちは誰も、潮さんの最期を見ていないんですから」
鋭利な氷柱のような眼差しにも負けず、兄さんは続ける。
「あなたたちにしてみれば、事情なんて関係ないかもしれない。ですが10年前、多くの命がなくなった時、皆が皆、同じ死に方をしていったわけじゃなかった。苦しくて叫ぶ人も、悲しくて泣く人もたくさんいたけれど、もうこれ以上子どもが飢えに苦しまなくて済むと安心していたお母さんもいました。とても悲しくて辛いことですが、死という平等な結果が待っていても、皆が同じことを考えているわけじゃありませんでした」
座り込んで目線を同じくした兄さんは、ぎゅっと握りしめたままの拳に手のひらを向けた。
「誰よりも人を愛していた潮さんが、最期に何を想っていたのか、あやめさんに聞きに行きませんか?」




